おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

貧乏神を引き寄せる思考パッターン

「あの人、きっとこれからも貧乏ですよ」

「どうしてそんなことが分かるの?」

「だって、あの人は気持ちさそうに人を責めているじゃないですか。人を責めたり批判したりすることが好きな人って他人が不幸になることを望んでいる人ですから。そういう言葉を口にすればするほど貧乏神というのはその人に近づいていきたくなるんです」

水野敬也『夢をかなえるゾウ2』

 

私たちは一人ひとりが、善悪の基準を持っている。

 

どのような人が良い人で、どのような人が悪い人なのか。

どのような人が価値のある人で、どのような人が価値がない人なのか。

 

(この時点で、本来多面的な人間を一面的なものとしてしか捉えようとしないという私たち自称大人の傾向がうかがえる)

 

その基準は個々人によって異なる。

 

AさんにとってCさんは悪に見えるけれど、BさんにとってCさんは何とも思わない、ということが往々にしてある。

 

Aさんの見方が正しいとか間違っているとか、Bさんの見方が正しいとか間違っているとかではなく、単純に一人ひとり見え方の異なる世界に生きているということになる。

 

そして私たちは懲罰思想を持っている。

(幼少期等に叩き込まれた結果、今現在持っている。そして私たちに懲罰思想を叩き込んできた人も誰かに叩き込まれた結果、持つことになった)

 

懲罰思想というのは、悪人の不幸を願う発想、悪人の苦しみを願う発想、悪人を責めることは善であるという発想、悪人を苦しめることは善であるという発想。

 

人を責めたり批判したりすることが好きな人というのは、悪人の不幸を願い、責め立て、苦しめることを楽しんでいるということになる。

 

まぁ、それがそれだけで終わればいいのだけれど、悪の側面があるのは人だけではない。

 

人に悪の側面があるように、自分にも楽勝で悪の側面がある。

 

人を責めたり批判したりすることが好きな人というのは、その厳然たる現実を完全に見逃しているのではないかしらん。

 

人に適用したものは自分にも適用される。

 

悪の側面がある人の不幸を願う。そして自分にも悪の側面がある。ということは自分で自分の不幸を願っているということで、当然自分が不幸になるような結果を引き寄せるように動いてしまう、ということになってしまう。

 

自分が他人を罰しようとするかのごとく、自分が自分を罰するために無意識的に動いてしまう。

 

その結果、人を責めたり批判したりすることが好きな人は、心身とも不安定になり、経済的にも不安になり、人間関係も不安定になり(あるいは表層的な付き合いだけになり)、幸福になることは決してないということになる。

 

幸福そうな記号を手に入れて幸福そうに見えることはあるかもしれないが、他人の悪を延々と責め立て、他人の不幸や苦しみを延々と願っているるように、自分の中の悪を延々と責め立て、自分の不幸や苦しみを延々と願っているので、自分の内面、心、精神はズタズタに傷つき、ボロボロで、不安と恐怖と強迫観念が逆巻き、平穏・平安とは程遠い状態にある。

 

常に心が苦しんでいる状態なので、苦しみを誤魔化すために強い刺激が必要になる(酒、タバコ、ギャンブル、薬物、スマホ、過労、ポルノ、ゲーム、他責、買い物、暴力、暴言

 

心が穏やかではないのは誰かのせいでも社会のせいでも政府のせいでもなく、自分の個人的な善悪の基準と根深い懲罰思想によるものなのであーる。

 

このことに気がついて、他人の懲罰活動を観察するとやっぱりその人は苦しんでいるし、他人の懲罰活動を観察するかのごとく、自分の懲罰活動を観察するとやっぱり自分も苦しんでいることがわかる。

 

懲罰活動に勤しむから自分の心が苦しむ。

自分の心が苦しいから懲罰活動に勤しむ。

この無限ループ。

 

悪人と見なした人を苦しめようとするから自分の心が苦しむ。

自分の心が苦しいから悪人とみなした人を苦しめようとする。

この無限ループ。

 

価値がない人と見なした人を見下そうとするから自分の心が苦しむ。

自分の心が苦しいから価値がないと見なした人を見下そうとする。

この無限ループ。

 

んじゃあ、どうすればこの無限ループから抜け出すことができるのか。

 

簡単だ。

懲罰思想から離れればいい。

酒やタバコやジャンクフードが体によって害でしかないとわかれば、やめようとするように、懲罰思想が苦しみの根本原因とわかれば、懲罰思想から離れようと思う。

 

ある人が悪に見えたとしたら、そういう人もいる、その人はその人で苦しんでいる、

とある種の憐れみをもって相手を捉え直すことができる。

 

ゴータマ・シッダールタ先輩の慈悲やキリスト先輩の憐れみは、苦しみの根本原因を理解しているからこそ来ているのかもしれない。そして憐れんだからといって、相手の悪が正当化されるわけではない。悪は悪のままだが、悪に対する反応として懲罰を選択する必要はない。悪の側面がある自分がここにいてもいいように、悪の側面がある他人もここにいてもいいわけだ)

 

その人は自分が正しいという大前提のもとに自分の思い込みどおりに現実はあると思い込んでいる。誰かを責めたり苦しめたら物事が思い通りになる思い込んでいる。そうして物事が思い通りになれば幸福になれると思い込んでいる。そうしてその人は苦しんでいる。苦しみの無限ループにはまり込んでいる。皮肉ではなく、本当にその人は可哀想な人なのであーる。

 

あの人は悪、あの人は価値がない人間、というように人をどのように捉えるのは個々人の自由だ。

 

そして、自分が悪や価値がないと見なした人に、どのような反応を選択するのか、その人の存在を否定するのか、苦しめようとするのか、傷つけようとするのか、馬鹿にしようとするのか、存在を肯定しようとするのか、慰めようとするのか、大事にしようとするのか、何も反応しないようにするのか、というのも個々人の自由だ。

 

あちしは何をどう捉えて、どう反応しているのか。

どういう言葉が自分の中でうずまいているのか、実際に吐き出されているのか。

 

思考パッターンが後戻りできないほどにガチガチのガチムチに懲罰思想に固まってしまう前にこの点を俯瞰的に見ることができなければ、自分が苦しみの無限ループにはまり込んでいることにも気づかず、自分の苦しみの原因を全て他者や社会のせいだと思い込み、他者や社会の不幸を望み続けるだけ、つまり自分自身の不幸を望み続けるだけの人生になり、知らず知らずの内に自分が自分の不幸を呼び寄せるだけの人生になってしまう。

 

そうして不幸の原因が自分だとわかったらわかったで自分を責め立て自分を破壊し消し去り全てを解決しようとしてしまう(まさに懲罰思想の申し子だ)。

 

先日も人身事故で電車が止まった。

 

声出して切り替えていこうと思う。