おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「価値のある人間」を演じながら過ごしている

「『いい人』というのは、他人を喜ばせるのではなく、他人から嫌われたくないという気持ちから自分の欲求を抑えつけてしまう人です。でも、そういう人が何かを手に入れることはありません。なぜなら――自分の欲求を抑え続けることで、どんどん『やる気』を失ってしまうからです」

水野敬也『夢をかなえるゾウ2』

 

私たちは日々、自分なりの「価値のある人間」を演じながら過ごしている。

 

いい人

できる人

賢い人

裕福な人

幸福な人

ポジティブな人

頑張っている人

正しい人

温かい人

優しい人

寛容な人

おしゃれな人

可愛い人

まともな人

善良な人

敬虔な人

ちゃんとした人

悟っている人

モテる人

人気な人

かっこいい人

きれいな人

 

どうしてこういった「価値のある人間」を演じるを必要があるのかというと、人から嫌われたくないからだ。

 

自分の中に、こういう人間は嫌われる、こういう人間は好かれるという図式があり、自分なりに「わたしはこういう価値のある人間である」ということを証明すれば、人から価値のある人間として認めれ、嫌われない、好かれる、大事にしてもらえると思い込んでいる。

 

自分の中のこういう人間は価値があり好かれる、大事にされる、こういう人間は価値がなく、粗末にされるという図式は、幼い頃に身近な人、特に親から条件付けされていて、子どもにとっては実質的に親が絶対的な存在であり、親からいかに大事にされるかが死活問題であるために、その条件付けがガッツリ根付いてしまう。

 

そしてその条件付け、図式にその先も縛られ続け、「価値のない人間は粗末にしてもいい」「価値のない人間は粗末にされる」という思い込み=世界の中で生きることになり、その世界の中で価値のない人間とみなされて、人から嫌われることや人から粗末にされることにびっくんびっくんと怯えて生きることになり、その結果、人から嫌われないように、人から粗末にされないように「価値のある人間像」を演じ続けることになる。

 

演じる方法としては大きく2つある。

 

世間的に価値のあるものをかき集め、かき集めたものを根拠にして価値のある自分像を作り込むか、人を悪をあげつらい「価値のない人間」として非難すること。

 

前者の例であれば、金をかき集めてそれを根拠に価値のある自分像を作り上げる。

ブランド品を持っていることを根拠に価値のある自分像を作り上げる。

美女と付き合っていることを根拠に価値のある自分像を作り上げる。

世界記録を持っていることを根拠に価値のある自分像を作り上げる。

勤務先の知名度を根拠に価値のある自分像を作り上げる。

SNSのフォロワー数を根拠に価値のある自分像を作り上げる。

 

(価値のある自分像を作り上げるのに役立つものに私たちは執着し、それを好きになる。そして、価値のある自分像にとって都合の悪いものを嫌悪する。好きや嫌いというは価値のある自分像への執着から生まれているのであーる)

 

後者の例であれば、人の悪口を言う、罵詈雑言をネットに書き込む、人に暴言を吐く。

(実際に口に出そうが出すまいが、書き出そうが出すまいが、人を悪として非難し、責める思いが噴き上がっているのであれば、同じことだ)

 

人を悪としてみて責めることで、おれはあいつとは違ってちゃんとしている人間だ、正しい人間だ、できる人間だ、善良な人間だ、きれいな人間だ、まともな人間だと価値のある自分像を証明したいわけだ。

 

そして、こうして日々必死に演じ、ネバギバの精神で証明しようとしている価値のある自分像というのは、虚像でしかない。

 

実際の自分、ありのままの自分は人から受け入れてもらえない、そう思うからこそ、実際の自分の思いや感情や欲望を否定する形で「こういう人間でなければならない」「私はこういう人間だ」「私はこんなに価値のある人間なんだ」という思い込みが形成されている。

 

実際の自分が無視され、抑圧され、攻撃されている一方で、虚像である「価値のある自分像」が大事にされている状態。

 

それは根本的に苦しい状態で、その苦しみを解消するためには実際の自分、虚像とはかけはなれた現実の自分にきちんと注意を払い、虚像にとっては都合の悪い側面を抱えた現実の自分の側面を一つ一つ受け入れていくしかないのだけれど、私たちは自分のことをこれまで虚像=自分と信じて生きてきたし、虚像を証明するために膨大な時間と労力とお金を投じてきたので、実際の自分を受け入れていく方向へはなかなか舵を切れない(だからこそ、価値のある自分像を証明するために購入した洋服1着さえも捨てられない)。

 

むしろ逆にもっと頑張って世間的に価値のあるものをより多くかき集めれば、あるいはもっと他人の悪を目ざとく見つけ、他人を非難すれば、私は清く正しく善良で美しい自分になれると錯覚し、苦しみを誤魔化し、苦しみを加速させる努力をしてしまう。

 

努力自体は素晴らしいことだが、その推進力は方向性を間違っている時点でとんでもない結果を引き起こし続けることになる。

 

虚像を証明するための努力は基本的に優越感を求める努力と同義だ。

 

そして優越感の努力というのは、誰かよりも上になること、一番になること、儲けること、それが目的になっていると、そうなれないとわかった瞬間にそれまでやっていたことをやめてしまう。その結果何も得られない。

 

(仮に一時的に優越感が得られても、いつその立場が危うくなるのか常に不安と恐怖と強迫観念に苛まれ続けることになる)

 

努力が続かず何も得られなかったとしても、優越感への飢餓感、価値のある自分像を証明したい渇望はなくならない。だから人を悪くみて人を避難する。ネットに罵詈雑言を書き込む。

 

人を非難し、誹謗中傷するために何の努力もいらない、努力することなく優越感を得ることができる、努力すること一時的に快楽をえることができる、まさに麻薬。

 

条件付けされ、根本的に自己否定をし、さらに世間的価値によって価値のある自分像を証明できない状態であるため、そのつらさを誤魔化すために他責にはまるのもわかるが、他責はジャンキーと本質的には何も変わらない。

 

誰かを責め立てても自分は根本的に苦しいままで、その苦しみが一時的に誤魔化された時にそれを幸福と錯覚しているに過ぎない。

 

自称大人であるならば、虚像を大事にする生活から実際の自分を大事にする生活にシフトしていったほうがいいのだけれど、んじゃあ、今の自分が虚像中心なのかどうかをどのように判断すればいいのかしらん。

 

使っていないものをさっと手放せるかどうか。

何もしないぼさっとした時間があるかどうか。

人を責めること時間が多くないか。

 

こんなものだろう。

 

使っていないものというのは価値のある自分像を証明するためにかき集めたものが大半で、虚像中心でなければ証明する必要がなく、使わないものは邪魔なだけなので楽勝で手放すことができる。なお、「おれはミニマリストなんだ」という虚像に執着している場合は、「ものが少ないこと」を根拠にして価値のある自分像を証明しようとしているため、実際に使うものさえも持つことを拒むことになる。

 

特に何もしないぼさっとした時間があると、自分の注意は自ずと自分の内側に向くことになる。その際には否応なく実際の自分、日頃から証明しようとしているきれいな自分像とは異なる自分の醜い側面や邪悪な側面や弱い側面や変態的な側面や狭量な側面や冷酷な側面やずるい側面などが見えてくる。

 

そしてそういった理想の自分像とはかけ離れた実際の自分の側面を見たくないからこそ、私たちは暇な時間や空白の時間になると落ち着かなくなり、常に何かを詰め込もうとしてしまう。自分の注意を自分ではない何か別のものに移そうとして忙しくする。

 

その一環として他人に、特に他人の悪にばかり注意を払い、更に責めることによって価値のある自分像を感じ、実際の自分を見ないようにする。

 

全てに共通しているのは、自分を見ないようにしていることだ。

ものややることや他人、つまり自分の外側にばかり注意を向け、自分の内側に注意を向けようとしないことだ。

 

自分には実際にどのような側面があるのか見ようとしない。

自分の中でわき起こっている感情や思いや想念や思考を見ようとしない。

自分が自分に対して何をしているのか見ようとしない。

(外面の虚像に執着して、自分が自分を縛り付け、自分が自分を粗末にして苦しめているいることを把握しようとしない)

 

自分が自分を見ようとせずに、人から見てもらおうとし、人から見てもらうためには価値のある自分像を証明しなければならないと思い込み、ネバギバの精神で虚像の証明活動に勤しんでいる。

 

というようなことを書き連ねることによって、私は「こんなことがわかっている自分」というこれまた価値のある自分像を証明しようとしているのかもしれない。

 

というように自分をぼさっとみてあげられるようになると、日々が穏やかになる。

心が無視されたり、攻撃されたり、抑圧されたりしていないので、活力が出てくる。

 

しかし、すでに肯定されている状態なので、優越感を求める必要性がなく、虚像を証明して優越感を得るための努力ではなく、実際の自分を大事にしていく方向へより多くの努力を割けるようになっていく。するとますます心が落ち着いてきて、活力も出てきて、いい感じのループに入っていく、その結果、何気ない日常も充実してくる。

 

他人は価値のある自分像の証明活動で忙しく、人のことをちゃんと見ようとはしない。

だから自分が自分をちゃんとみてあげたほうが実際的で効果的だ。

そうすると人のこともちゃんと見ようと思えるようになってくる。

そうすると自分のことも他人のことも大事にできるようになってくる。

 

(人を粗末にする時、私たちは人のことをちゃんと見ることもないまま、自分の都合と思い込みで相手のことを悪と決めつけ、価値のない存在と断定し、悪は苦しめてもいいという懲罰思想によって粗末に扱うことを正当化して人を粗末に扱うため、相手をちゃんと見ようとすることはとても大事なことだ)

 

声出して切り替えていこうと思う。