おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

いつもの休日としてのゴールデンウィークだった

連休中はいつもの休日ルーティンで終了した。

 

家事

運動

読書(インプット)

瞑想

情報発信(アウトプット)

 

これらは特に金もかからなければ、特別な資格もいらなければ、特別な環境もいらない。

一人でできるし誰でもどこでも何歳からでもできる。

 

正直、これらだけで心身が整い、部屋が整い、日常生活が整い何とも言えない充実感がある。

 

よって、何かウキウキ・ワクワク・ドキドキ・ハラハラするような何か、つまり非日常的な時間や場所やものや人を求める必要性をあまり感じなくなってくる。

 

(だからといって他人や非日常が不要と言いたいのではない。他人と過ごせる機会、非日常を楽しめる機会があったら存分に楽しめばいいと思う。)

 

上の5つのことは、ずっと続けていきたい習慣でもある。

 

マットレスのカバーを洗った。

使っていないものを捨てた。

物入れとして使っていたダンボールや紙袋を捨てて、きちんとした収納箱を買ってそこに収納した。

靴を磨いた。

夕飯支度時からはネットを使うのをやめた。

足りない食料品や日用品を補充した。

 

おかげで部屋がすっきりした。

家事や運動や読書や瞑想や情報発信がより快適にできるようにり、それらに使える時間が増えた。

 

休日を非日常的に過ごしても、つまり強い刺激により見たくないものを見ないようにして過ごしても、結局は何も変わらないことが多い。

(汚いものに対処して掃除をして快適な部屋で過ごすか、汚いものに対処することから一時的に逃げてまた汚い部屋に戻って来るか、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気)

 

むしろ、非日常(強い刺激による誤魔化し)と日常(地味で平凡な現実)の落差によりその反動が凄まじく、それにより日常が嫌になり、ますます非日常を渇望するようになる。

 

人生の内の膨大な時間を過ごすことになる日常をないがしろにし、非日常だけを重視するようになってしまう。逃げて誤魔化すだけの日々になってしまう。

 

日常が整っていないと日常が苦しものとなり、その日常の苦しさから逃げるための非日常、日常の苦しさを誤魔化すための非日常となる。

 

その手の非日常も楽しいは楽しいのだけれど、その楽しさは見たくない現実を誤魔化すために飲む酒や打つ麻薬が気持ちが良いと言っているようなもので、長期的に考えると、積極的にやるべきものではないだろう。

 

理想は日常が整っている上で、時々舞い込んでくる非日常を楽しめることだろう。

主軸はあくまでも地味で平凡だけれど、心身と身近な環境が整う日常。

 

日常を変えれば、その効果は凄まじい。

 

非日常には大金がかかるが、日常を整えるのに大金はかからない。

非日常ためには休日や連休を待たなければならないが、日常を整えるのは今からもできる。

 

大掛かりでキラキラしている特別な感じの雰囲気の行為やものには実質的には価値はなく、誰もができるような地味で平凡で身近な行為やものにこそ凄まじい価値がある。

 

みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことを伝えたいのだけれど、うまく表現できない。まぁいいか。

 

とにもかくにも日常を一段と整えることができた良き休日だった。