わが国の競争力が低下しているとか、このままでは他国に引き離されるとか言う言説が当たり前のようになっていますが、何がどうなったら競争力が上がったとか下がったとかいうのですか、どうなれば勝ちでどうなれば負けなのですか。暮らしが豊かになるとはどういうことですか? 遠い国の病気1つで、たくさんの会社が潰れたり路頭に迷う人がたくさんになるようなシステムのどこが豊かですか。つまるところ、本書で言うように、全ては精神の働きなのに、勝つべき!と叫ぶ者が、勝ちを知らず(考えず)、生きるとは何かを知らず(考えず)、一体何を生きていることになるのでしょうか。
宮野公樹『問いの立て方』
人に勝ちたい、人の上に立ちたい、と私たちは当然のごとく思ってしまうのだけれど、その勝ちや負け、上や下というのはつまるところ何なのかというと、結局、自分の思い込みの基準でしかない。自分の中の概念遊びでしかない。あるいは特定の集団内で通じる概念遊びでしかない。
スポーツやゲームには勝ち負けの定義が明確にあるのだけれど、私たちが生きる日常生活には、共通の勝ち負けというのは存在しない。
強いてあるとすれば、一人ひとりが勝手に「こういう人間が勝者でこういう人間が敗者である」という思い込みを抱いていて、その思い込みを通じて世界を捉えていて、そのような思い込みの中、一人ひとりが勝手に設定したゲームの中で自分なりの勝者になろうとし、自分なりの敗者にならないようにネバギバの精神で頑張っている。
勝者を目指して頑張る、上を目指して頑張るというのは素晴らしいことなのかもしれないけれど、立派な陰毛が生え揃った自称大人の自分が意味するその「勝ち」というのは何なのか具体的にどのような状態なのか、「上」というのは何なのか具体的にどのような状態なのかについて、みたらし団子でも食べながら考えてみるといいのかもしれない。
おそらく私たちが思いつく「勝ち」や「上」というのは世間的価値(お金や名声や権力や美貌や健康など)をより多く手に入れた人みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のものなのではないかと思うのだけれど、その定義、つまりその思い込みの中で暮らしていくとなると、どんなに世間的価値を手に入れても諸行無常の理(究極的には死)によって全てを失うことになるのだから、結局は「敗者」「下」の人間として人生を終えることになる。
他人視点からみたら「勝者」や「上」かもしれないが、当の本人からすると記憶や経験も含めこれまで有していたと思われていたものがことごとく失われ、何かを持っている実感がなくなるのだから「敗者」「下」ということになる。というよりはむしろ自分が何者でもない状態で消え去ることになる。
何か価値のあるものを手に入れれば何者かになれると思ってネバギバの精神で努力する。
そして手に入れたもの、あるいは手に入れていないもので自分のことを「上」なり「下」なり「勝者」なり「敗者」なり「てっぺん」なり「底辺」なりとして定義する。
そして諸行無常の理によって、自分を自分として定義していたものを全て失い、結局は何者でもない自分として消え去っていく。
(誰かの心の中で自分は生き続ける、という言説があるが、それは他人の思い込みの中のイッメージとして自分であり、実際の自分ではない)
来世というものがあるとすれば、人はこれを永遠と繰り返すのかもしれない。
諸行無常の理によって必ず失われる何かによって定義された「勝者」と「敗者」、「上」と「下」、このような世界観、このような思い込み、このような思考パッターンの中で生きていくのかもしれない。
自分は「自分の思い込みの中=自分の世界の中」でしか生きられないだから、どのような世界で生きていくのかは全て自分の思考パッターン、自分の精神次第で完全に個人の自由なのだけれど、少なくとも何かで定義されているであろう「敗者」や「下」を否定し、なおかつ自分が諸行無常の理によって「敗者」や「下」になることが確定している世界の中で生きることは不毛だし苦しみが多いだけということは理解した上で、自分の世界を選び取る必要があるのかもしれない。
よーし、今日は我が国の競争力向上及び私個人が勝者となり上の人間になるために!……何をすれば良いのかよくわからないので、風呂掃除でもしようと思う。
声出して切り替えていこう。