子供の誤った行動のすべてを容認することも、愛のない育て方である。子供を育てるときには、なんらかのかたちで、寛容と非寛容、受容と要求、厳格性と柔軟性の両方が必要となる。相手にたいする、ほとんど神に近い共感を必要とするのである。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
私たちは自分のことを正しい人間、善良な人間と定義し、人から正しい人間、善良な人間として見てもらいたいと日々思っているため、自分の間違いや邪悪さを認めることができず、自分の言動の全てを正しいもの、善良なものに変えようとしてしまう。
自分のことを正しい人間、善良な人間と思い込んでいる一方で、私たちは何が正しいことで何が間違っていることなのか、何が善で何が悪なのかということを案外と知らなかったりする。
正しいことと間違っていること、良いことと悪いことのモノサシが曖昧で、しかもそのモノサシを自分の都合の良いように捻じ曲げ、自分を正当化し、自分は正しい人間であり、善良な人間であると規定しようとする。
陰毛が生えている。
ただそれだけで私たちは自分があたかも清く正しく善良で立派な大人になったかのように錯覚してしまう。
おれっちは清く正しく善良な大人なんだ、だから子どもを育て正しい方向へ導くことができる立派な大人なんだ、だから子どもに対し何が正しくて何が間違っているのかを教えることができるんだ、何が善で何が悪なのか教えることができるんだ、と思い込んでいるのだけれど、実は自分のモノサシは曖昧で、あるいは明確なモノサシを持っていたとしてもそのモノサシを自分の都合の良いように捻じ曲げてしまっているのであーる。
子どもを育てる前に、まずは自分自身をどうにかする必要がある。
まずはどうしてそれが正しくてそれが間違っているのか、どうしてそれが善でそれが悪なのかを説明できるモノサシを持つ。
それからそのモノサシを自分にあてがい、捻じ曲げることなく自分を見てみる。
自分の良いところは良いところとして見て、悪いところは悪いところとして見る、善の部分は善の部分として見て、悪の部分は悪の部分として見る。
そして、間違っているところ、悪の部分があったとしても、そのような部分がある自分を責めずに受け入れる。
正しさや間違い、善い悪いに関係なく自分の自分に対する態度を変えることなく、一定にする。
自分には間違う側面があるけれど自分は自分にとって大事、自分には悪の側面があるけれど自分は自分にとって大事、という大前提に立っているため、間違う側面のある自分、悪の側面のある自分を自分自身が粗末に扱うことはない。
間違う部分があっても存在を否定されない関係、悪の部分があっても存在を否定されない関係を自分自身と築いていく。
自分に一定の条件を課し、その条件を満たした「きれいな存在」でなければ、自分の存在を否定し、自分を粗末に扱おうとする思考パッターンから抜け出している状態。
正しいものや善良なものの存在のみを肯定し、間違っているものや邪悪なものの存在は容赦なく抹殺しようとするというアンバランスさのない状態。それ故に、自分のありとあらゆる言動を正しく善良なものへと正当化しようとする歪みのない状態。
正しいものや善良なものは正しいものや善良なものとして受け入れ、間違っているものや邪悪なものは間違っているものや邪悪なものとして受け入れ、正しいものも善良なものも間違っているものも邪悪なものも、その存在を肯定するというバランス。それ故に、自分の良いところは良いところとして認め、悪いところは悪いところとして認める歪みのなさ。
以上のようなことを自分に対してできるようになってようやっと自称大人の私たちは子どもを愛情をもって育てることができるのではないかしらん。
子どもには、正しいことは正しいこととして教える。
間違っていることは間違っていることとして教える。
良いことは良いこととして教える。
悪いことは悪いこととして教える。
それらのモノサシ、つまり、判断基準を教える。
その上で、正しさや間違い、善い悪いに関係なく、子どもへの態度や扱い方は変えない。
正しさや間違い、善い悪いに関係なく子どもを大事にする。
正しさや間違い、善い悪いと子どもの存在の大事さは全く関係ない、ということを教えていく。
間違う部分があっても存在を否定しない関係、悪の部分があっても存在を否定しない関係を子どもと築いていく。
自分自身にも間違う部分や悪の部分があることを受け入れているからこそ、間違う部分や悪の部分がある子どもにも共感することができ、それ故に以上のようなことができるようになる。
子どもに一定の条件を課し、その条件を満たした「きれいな存在」でなければ、子どもの存在を否定し、子どもを粗末に扱おうとする思考パッターン。
この思考パッターンの自称大人に育てられた子どもは、自らもその思考パッターンを受け継ぎ、「きれいな存在」でなければならないという不安と恐怖と強迫観念に苛まれ、それ故に「きれいな存在」とは言い難い側面が自分や人にあると、そういう自分や人を否定し粗末に扱おうとしてしまう。
そしてそれ故に、あたかも自分は「きれいな存在」であるかのような振舞いをしてしまう(「きれいな存在」でないと思われたら、人から否定されると思ってしまうからな。そして「お前はきれいな存在ではないからダメだ」と実際に否定してくる人がいたとしたら、その人も同様の思考パッターンを持っているということになる)。
そして同様の思考パッターンによって子どもを育て、その子どもも同様の思考パッターンによる苦しみを受け継ぎ、次の世代に同様の思考パッターンを引き継いでしまう。
どのような思考パッターンを選び取り、修得し、どのような思考パッターンで生きていくかは完全に個人の自由なのだけれど、自分や人に一定の条件を課し、その条件を満たさなければその存在を否定し粗末に扱おうとする思考パッターンは確実に自分に苦しみをもたらし続ける(これはどうしようもない事実だ)。
その上で、どのような思考パッターンを選び取り、修得し、自称大人として子どもを育てていくか。自分がどのような思考パッターンで生き、どのような思考パッターンによって苦しみや歓びを得、どのような思考パッターンを意識的であろうと無意識的であろうと伝播させているか。
声出して切り替えていこうと思う。