他人の欠点に対して過剰反応をし、コントロールできない周りの人や状況に対して被害者意識を持ってしまう依存性
自分自身を正当化するために相手の弱点を必要としている
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
ここ数日、ネガティブモード全開の人の話を立て続けに聞くことがあった。
彼らの傾向として、どうしてこうしてくれなかったたんだ、こうすることが当然だろう、こういうはずだ、こうに違いないと思った、ああいうことがなければこうはならなかった、私はこんなに被害を被った、ぴえん、だから〇〇して欲しい、こんなに可哀想な私は〇〇してもらって当然だぽよ、と考える傾向がある。
特に大したことでもないことや自分でもどうにでも対処できたはずのことでも、とにかく物事を否定的に捉え、相手を悪い方へ悪い方へともっていき、相手は加害者、こちらは被害者という構図を無理矢理にでも思い描こうとする。
そこには、ある物事の悪の側面を責めることによって、自分の問題を他人にどうにかして欲しい、自分の問題を解決するのは当然他人であると発想がある。
他人を責め立て誰かを悪者にして自分の都合の良いように動いてもらうほうが楽だからな。
さらに何らかの悪の側面を責めることによって、善良な自分、正しい自分、可哀想な自分という自分が感じたい自分を感じることができて安心することができて気持ちがいいからな(一時的に)。
この楽さや気持ち良さに中毒になると、他人の欠点や弱点が大好物になる。他人の欠点や弱点を見つけることに時間と労力をかけることになる。
自分自身を正当化し、感じたい自分を感じて、自分は善良で、正しい、価値のある人間なんだと安心するために、人の欠点や弱点が必要になってくる。
そのような世界(物事の捉え方)の中で生きていくのは苦しい(けれど一時的には楽、常に苦しい世界にいるため短絡的な楽を求めてしまうのかもしれない)だろうけれど、本人たちにはどんなに些細なことであってもどうしようもなく物事が悪く見えるのだから仕方がない。
(そう見える世界が本人たちにとっての現実で、そういった意味で現実というのは一人ひとり異なるため、お前の見方はおかしいぽよ、と本人たちの現実を否定するつもりはない)
何かについてひとつでも何か自分たちに都合の悪いことが起こると、それは悪一色になってしまう。
そこには確かに認めてもいい良い側面もあるはずなのに、全てが悪になり、あれがなければこうならなかった、あの人さえいなければ、あの人がああしなければ、と自分の物事の捉え方を絶対的に正しいものとして、目の前の現実の全ての原因を他人に求めてしまう。
この思考パッターンは、自分にも跳ね返ってきて、自分の中に何か自分にとって都合が悪いことがあると、ただその一点を持ってして自分を悪だと見て自分を否定してしまう。その自己否定が苦しみを生む。
そしてその苦しみの原因を、自分の思考パッターン(物事のたった1点の悪をもって全てを悪と見て、その悪を全否定し攻撃し消し去ればきれいになるという思考パッターン)に見出して何とか見直していこうとするわけではなく、全てを他人のせいにしてしまう。
すると思考パッターンは一向に変わらないため、諸行無常の理によってどんなに周囲の環境が変わっても同様の思考パッターンによって同様の苦しみがもたらされ続ける。
ネガティブモード全開の人、つまりその無限ループの中に明らかにいる人と接して、世界がずっと悪く見え続ける世界にいるのは苦しいだろうと思うとともに、学べることも多かった。
声出して切り替えていこうと思う。