つまさきで背のびをして立つものは、長くは立てない、大股で足をひろげて歩くものは、遠くまでは行けない。自分で自分の才能を見せびらかそうとするものは、かえってその才能が認められず、自分で自分の行動を正しいとするものは、かえってその正しさがあらわれない。自分のしたことを鼻にかけて自慢するものは、何ごとも成功せず、自分の才能を誇って尊大にかまえるものは、長続きしない。
それらのことは、根源的な無為自然の「道」の立場からすると、余分な食べもの、よけいなふるまいというものである。余分な食べもの、よけいなふるまいでは、だれもがそれを嫌うであろう。そこで、「道」をおさめて身につけた人は、そんなことは決してしないのだ。
先進国における消費行動が「自己実現のための記号の発信」に他ならないことを明確に指摘したのはフランスの思想家であるジャン・ボードリヤールでしたが、この指摘はもはや先進国においてではなく、多くの発展途上国にも当てはまるようになってきています。
山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』
私たちは日々、実際の自分よりも美化された自分というものを証明し、そうした美化された自分像を自分として人から認めてもらおうと日々ネバギバの精神で頑張っている。
そのために背のびをし、大股で足を広げて歩き、自分の才能を見せびらかそうとし、自分の行動を正しいものとしようとし、自分のしたことを自慢し、自分の才能を誇っている。
どれも、自分は価値のある人間なんだということを証明したいが故の行動だ。
強い自分、自信のある自分、有能な自分、正しい自分、善良な自分という、自分が自分だと思い込んでいる自分像、自分が人から認めてもらいたい自分像、こうでなければならないと思い込んでいる自分像、そういった理想の自分像、理想の自分というイッメージを下支えし、規定してくれるための行動だ。
価値のある自分、というイッメージを支え、規定し、定義し、根拠づけてくれると思われるものを記号と呼ぶとすると、言動だけではなくその他のありとあらゆるものが記号になり得る。
価値のある自分という理想の自分像を証明するための食べ物(記号としての食べ物)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための言動(記号としての振舞い)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための才能(記号としての才能)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための肩書(記号としての肩書)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための権力(記号としての権力)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための資産(記号としての資産)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための経験(記号としての経験)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための恋人(記号としての恋人)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための結婚(記号としての結婚)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための家族(記号としての家族)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための衣服(記号としての衣服)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための仕事(記号としての仕事)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための宗教(記号としての宗教)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための肉体美(記号として肉体)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための趣味(記号としての趣味)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための持ち物(記号としての持ち物)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための正しさ(記号としての正しさ)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための健康(記号としての健康)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための善良さ(記号としての善良さ)
価値のある自分という理想の自分像を証明するためのライフスタイル(記号としてのライフスタイル)
価値のある自分という理想の自分像を証明するための・・・
みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で、価値のある自分という理想の自分像をアッピールし証明するためにかき集めようとしているもの、握り締めようとしているもの、しがみつこうとしているものは、どんなものであろうと「記号」になり得る。
つまり、虚栄心のためのものは全て記号になり得、それは余計なものでしかない、と老子先輩は言ってるわけだ。
そして世の中には、この記号を手に入れれば価値のある理想の自分像を証明できる!強化できる!価値のある自分の理想像はこのようにしてアッピールしろ!このようにして証明しろ!という類のメッセージが込められたもので溢れかえっている。
「自己実現のための記号の発信」、証明したい理想の自分像のための記号をかき集めるために時間とお金と労力を割いているということを、ボードリヤール先輩は指摘している。
んじゃあ、私たちは人生の膨大な時間と労力とお金を投じて価値のある自分という理想の自分像を証明して、結局何をやりたいのか?
例えば、金を記号としてかき集め、そうした記号を根拠にして価値ある自分という理想の自分像を証明し、何をやりたいのか?
そうしてかき集めた金を、また別の記号に変換し、そうした記号を根拠にして価値のある自分という理想の自分像を証明し、何をやりたいのか?
正しさを記号としてかき集め、そうした記号を根拠にして価値のある自分という理想の自分像を証明し、何をやりたいのか?
美貌という記号をかき集め、そうした記号を根拠にして価値のある自分という理想の自分像を証明し、何をやりたいのか?
それは寂しさの解消だろう。
自分が価値のある人間であることを証明し、人から大事にしてもらいたい、人から気にかけてもらいたい、人から肯定してもらいたい、と思っている。
寂しいために、理想の自分像を証明し人から大事にしてもらい、その寂しさを解消しようとしている。
そこには、価値のある記号を有している価値のある人間しか大事にされないという思い込みがある。
価値のある記号を有していなければ価値のない人間であり、その種の価値のない人間は大事されないという思い込みがある。
そして、価値のある記号を有していない自分は価値のない人間であり、価値のない自分は大事にされないという思い込みがある。
(その思い込みは、自分自身が価値のある記号の有無で他人の価値を測り、価値がないとみなした相手のことを大事にしようと思わない、むしろ価値のない人間はどんなに粗末に扱ってもいいと思っているから生じている)
だから必死に価値のある記号をかき集め、価値のある自分像を証明しようとし、人から認めてもらい、人から大事にしてもらおうとする。
しかしそれは、おれはあちしはこんなに価値のある人間なんだということを声高に喚き散らすことに他ならない。
そして自分も価値のある記号をかき集めて価値のある自分像を証明したいと思っている周囲の人間からすると、そのアッピールや喚き声は、周囲の人間の理想の自分像証明活動にとって邪魔でしかなく、ノイズでしかなく、それ故に敬遠され、一方的に嫌われるか、互いの理想の自分像証明活動がぶつかり合い敵対関係に陥るかしてしまう。
いずれにしても、寂しさを解消しようと必死に記号をかき集め、理想の自分像を証明したにもかかわらず、寂しさの解消は実現しないことになってしまう。
つまり、記号の有無と寂しさの解消は関係がないということになる。
多くの記号をかき集めることに成功しているように見える人の中に(例えば金持ち)、人間関係が希薄で、常に寂しさを抱え、それでも何らかの記号を根拠にして価値のある自分像を証明すれば寂しさは解消されると思い込み続け、延々と記号をかき集め続け、何らかのきっかけによって、理想の自分像が崩れることにびっくんびっくん怯え、不安になっている人がいるのはそのためじゃろう(理想像通りの自分でなければ人から見捨てられる、人から大事にしてもらえないと思ってしまうから怯えて不安になる)。
寂しさ。
理想像。
記号の収集。
理想の自分像の証明活動。
ここ最近、日本の歴史、世界の歴史をマンガを通じてぼさっと眺めているが、古今東西の歴史上の自称偉人たちも、互いに権謀術数を講じ合い、殺し合いながら、結局は価値のある自分像を証明するための記号集めを頑張っただけに過ぎないのかもしれない。
天皇、皇帝、上皇、貴族、将軍、教皇、王位、権力、宗教、正当性、国土、植民地、大名、支配権、独占権、神権、権威、天下、カリフ、スルタン、ハーン、正義、教義、富、財宝、名声、血統、摂政、執権、関白、太閤、思想、総書記、首相…という記号。
そして諸行無常の理による全ての記号の消失。
記号によって支えられていた理想の自分像の崩壊。
スケールが違うだけで、型としては楽天ポイントを記号としてかき集めている私と何も変わらないのではないか。
(ちなみに寂しさを解消するためには、記号集めに勤しむののではなく、自分が自分を大事にし、自分の良い部分も悪い部分も正当化することなくしかと受け入れ、人やものを大事にすることに心がけていけばいいぜ☆)
なるほど。
これで私も歴史上の自称偉人たちと思考パッターン・行動パッターンが同じであることがわかった。
ということは今日はお祝い。
自分へのご褒美として、価値のある自分像を強化するための記号として使わないものを楽天市場で買い集め、そうして記号としての楽天ポイントもかき集めることにしよう。
というように、私は老子先輩のいう「よけいなふるまい」ばかりしているわけだ。
まじでぴえん。
声出して切り替えていこうと思う。