おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

内側の習慣

心の中でなにか悪いことを考える。まあ、それは他人にはわからないからいいや、と思って人を憎み、嫌う。しかし、他人に気づかれないとしても、その思いは深層心をどんどんと汚していきます。この事実に気づくとき、私たちは愕然とします。年をとるほど生きることがつらく重くなっていく人は、この表層心と深層心との因果関係に気づかず、あるいは気づいていてもそれを無視して生きてきたつけが回ってきたと言えるでしょう。

横山紘一『唯識の思想』

 

思考という心の働きが人間を創る。いまある私は、自分自身の思考がつくり上げたものだ。人の心に悪が芽生えたとき、必ず悩みがついてまわる。ちょうど牛が引く荷車のように、いつもうしろに続いてくる……。もし人が純粋な心を抱き続けるなら、喜びが訪れる。それは人に寄りそう影のように、必ず続いてくるものだ。

ジェームズ・アレン『人は考えたとおりの人間になる』

 

私たちは「世間的価値」をかき集め「価値のある自分」というものを証明するために自分の外側のことに忙しく、自分が普段どのような感情を起こしているのか、どのような発想をしているのか、どのような思いを起こしているのかということ、つまり自分の内側にほとんど注意を払わない。

 

ある不快な感情が起こったとしても、その感情を見つめることなく、その感情が起こった原因を他人や環境に求め、他人や環境を責め立てることに注力し、やはり自分の注意は自分の外側に向いてしまう。

 

あるいはその原因を求めている先の他人や環境がどうにもならないとなると、つまり自分の無力感を痛感すると、力を求めて奔走したり、あるいは刺激物を接種して我を忘れようとしてしまう。いずれにしても自分の内側に注意を払うことはなく、外側ばかりに目が向いている。

 

私のように脳髄がアッパラッパラッパーな人間は幸不幸の原因や苦楽の原因は自分の外側にあると思い込み、自分の外側をどうにかしようとしてしまうが、洋の東西を問わず、いわゆる賢者とされる人たちは自分の内側に目を向ける、というのが面白い。

 

結局私たちは自分の心のフィルターを通じて世界を捉えているため、悪い思いで形成された苦のフィルターで世界を見ると全てが苦しみに見えるし、良い思いで形成された快のフィルターで世界を見ると全てが心地よく見えるし、そうして見えている世界の中で私たちは暮らしていかざるを得ない。

 

ということは世界の見え方や感じ方に決定的な影響を与える自分の内側に注意を払うということは至極理に適っているのであーる。

 

んじゃあ、良い思いや悪い思いというのは何かというと、良い思いというのは温かくて寛容な感じの思いで、悪い思いというのは冷たくて排他的な感じの思いだ。

 

というようなことを書くと、自分の中から冷淡な思いが起こった場合、こんな悪い思いを起こしている自分はダメだぽよ、と自分を否定する人がいるが、その否定こそが悪い思いにあたる。

 

重要なことは、悪い思いを起こしている自分に気づいて、そういう自分を否定しないことで、それでも否定してしまったら、そうして自分を否定している自分を否定しないことだ。

 

とにかく自分が起こしている思いに注意を払い、気づき、最終的には否定しない、肯定する(正当化するのではない)。

 

私たちの心というは本来自由で極めて多種多様な思いを起こす。

 

本来それら一つひとつの思いに優劣や正誤や価値無価値というのはないのだけれど、私たちはそういう無色透明なものに色づけをしてしまい、こういう思いは起こしてもいい、こういう思いは起こしてはいけないというように、自分勝手に決めつけ、ある思いを抑え込んだり、無視したり、消そうとしたり、否定したりする。

 

そのような、自分が自分に行っている思想統制文化大革命みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽいものが自己否定を生み、苦しみや不安や恐怖や強迫観念を生む。

 

そうした思考パッターンの下では、心は安心できない。

 

どんなに自分で自分の心を統制しようとしても、思いとして起こるものは起こるし、あるものはある。

 

それに気づいて、こういう思いを起こしているなー、こういう思いが起こっているなーと否定することも正当化することもなく、ただその事実を眺めるだけで心は安心する。(否定されたり攻撃されたりすることがなく伸び伸びできるからな)

 

これが良い思いにあたる。

 

私の知人の両親は、一人は自ら命を絶ち、もう一人は錯乱し命を落とした。

 

その知人は両親の不幸の原因をコロナウイルスワクチンに求めていたが、それは違うのではないかしらん。

 

おそらく二人は長い間、「おいどんは正しい人間」「あちしは善良な人間」という名の下に、他人の存在を否定したり自分の思いを否定したりし続けて、悪い思いを起こすことが習慣となり、そうして心のフィルターが苦しみ色に変わり、世界が苦しみで満ち満ちているように見え、そうした苦しみは他人が生み出しているように見え、そうして「おいどんは正しい人間」「あちしは善良な人間」という名の下に、他人の存在を否定したり自分の思いを否定したりというのを繰り返し続け、この無限ループの中で苦悩し、疲れ果てたのではないかしらん。

 

自分の内側では何が起こっているのか。

 

放って置くと悪い習慣となり延々と苦しみが作り続けられることになるし、良い思いを起こし続けられるようになると精神的に安定して喜びがもたらされる。

 

内側の習慣にこそ気をつける必要がある。

 

声出して切り替えていこうと思う。