おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

職場の鬱傾向の人の特徴

辞めたいのは会社ではなく、いま、ここの、自分が存在することのむずがゆい不快感なのだ、きっと。

細川貂々『その後のツレがうつになりまして

 

私の職場に鬱で病休し、そのまま休職している人がいる。

 

また風の噂によると、私の職場にはその他にも何名か精神科に通っていたり、心を病んで部署異動したりしている人もいて、しかもその人数が案外と多くてびっくらこいている。

 

その人たちの顔面を思い浮かべてみて私が感じる鬱傾向の人の特徴は「潔癖」「不寛容」ということで、とにかく自分の中で人を区分けするためのハードルがはっきりしていて、しかもそのハードルが高すぎて、しかもそのハードルに満たない人のことを「価値のない人間」「悪人」「使えない人間」として徹底的に責め立てる傾向にあるように感じる。

(表立って表現しているかどうかは関係なく、心の奥底で責めているのであれば、それは責めているということになる)

 

私たちには自分勝手な基準で人を裁く(人の価値をはかり、その価値によって相手の存在を肯定したり否定したりする)傾向があるが、それはそれで自由なのでやりたかったらやればいいと思うのだけれど、自分が人を裁くために用いた基準というのは自分にも適用され、つまるところ、その基準によって自分が自分も裁くことになってしまう。

 

例えば、仕事のレベルがMax100までとして、仕事レベル90以上でなければ「使えないゴミ」「職場にいてはいけない人間」「穀潰し」というような基準を設け人を裁いていたとすると、その基準は自分にも適用され、自分が自分に否定されないように、そしてその基準を満たさなければ、人から否定されるのではないかとも思ってしまうために、仕事レベル90以上を達成しなければならないというプレッシャーに転じてしまう。

 

日頃から自分が基準を設けて人を値踏みして人を否定しているが故に、今度は自分自身が不安と恐怖と強迫観念に駆り立てながらネバギバの精神で仕事に臨むことになる。

 

むろんオムロン、不安と恐怖と強迫観念に駆り立てられながら何かをし続けるのは苦しいし、しかも、私たちは楽勝で完璧ではないし、諸行無常の理のために思い通りにならないことも多々あるために、自分が設けた基準を達成できないこともある。

 

そうなると、次は自分が日頃から人にやっているように、自分で自分を責めたり否定したりして苦しくなる。

 

しかもその苦しみ、つまり、「自分が存在することのむずがゆい不快感」は自分が日頃から人にやっているように自分で自分を否定しているからこそ生じているということに気がつかないために、当然のごとくその苦しみを人や環境のせいにする。

 

正しい因果関係ではなく間違った因果関係で世界を捉えてしまう。

 

そうすると自然と都合の悪い周囲の環境や人を切り捨てれば、この苦しみはなくなるぽよと考える。

 

しかし、「基準を設けて人を否定する自分自身」は依然として自分の中にあり続けているため、何かの折に似たような苦しみが生じてくる。

 

そうしてまた周囲の環境や人を切り捨て続け、しまいには都合の悪い自分を切り捨てれば、消し去れば、この苦しみはなくなるぽよという結論に至るのかもしれない。

 

結局は自分が日頃から人を裁こうしたり、苦しめようとしたり、消し去ろうとしているが故の苦しみだ。

 

つまり、日頃から自分がどのような思いを起こしているのかによって、自分の苦しみの有無や程度が決まってくるということだ。これを仏教では自業自得という。

 

このことを知れば、自分が今感じている苦しみが、自分が人を裁く時のどのような基準によって引き起こされているのか、自分が日頃から起こしているどのような思いによって引き起こされているのか、そういったことについてサンマルクカッフェーなんかでコーヒーでも飲みながら反省し、今後苦しみが減っていくように、苦しみが生じないように、他人や自分をフルボッコにするのではなく、自分が設けている基準を見直したり、少しずつ自分が起こしている思いに自覚的になろうと心がけていったり、自分が起こしている思いを変えていこうとしたりと、今までとは違う方向性で問題解決を図ることができるようになる。

 

いやー、ゴータマ・シッダールタ先輩ガチのムチですげぇわ。

 

声出して切り替えていこうと思う。