身内を特別扱いした厨房係を責めるつもりはない。だれもが遅かれ早かれ生死の分かれ目に立たされるという状況で友達を優遇した人間に、だれが石を投げる気になるだろう。石を手にするなら、自分がその立場だったらやはりそうしないだろうか、と胸に手を当てて考えてからにするべきだ。
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』
私たちは普段の生活において口や態度には出さなくても息をするように人のことを責め立てていることが多い。
なんであの人はああなんだろう。
なんでこの人はこうなんだろう。
まったくわかってねぇなー。
私だったらこうするのに。
そうして他人を責め立てることによって「わかっている自分」、「優秀で善良な自分」というものを感じたいのだろうけれど、自分が相手に期待していることを、自分が相手と同じ立場だった時に、自分は果たして本当にできるのかしらん、ということを考えてみる必要がある。
私たちは自分ができもしないことを相手にはできて当然であるものとして要求し、期待し、それができなかったら相手を徹底的に攻撃してしまう癖があるが、この癖は自己否定を生み、最終的に自分を苦しめる。
Aは日頃からミスした人を責める。(口や態度に示すか示さないかは関係ない)
なんであいつはあんなミスをするざます。
しょうもないざます。
私だったら絶対にあんなミスはしないでざます。
Aはミスをした人を責めるがゆえに、Aの中では「ミスをした人は人から責められる」というイメージができあがる。「ミスをすると人から責められる」という世界ができあがる。そういう思い込みができあがる。
その思い込みの中では、ミスをすると人から責められてしまうので、Aは人から責められないように仕事のミスを強迫的に恐れるようになり、過剰に神経を使って心身が消耗する。
仮にAが仕事でミスをしてしまうと、実際には誰もそのことでAを責める人などいないのに、A自身がミスをした相手のことを責めるからこそ、ミスをした自分のことを人が責めてきているように感じてしまったり、思い込んだりして、苦しんでしまう。
自分が日頃からミスをした相手に、あんな人間は肩身の狭いを思いをするべきだ、あんな人間はダメだという思いを意識的であれ無意識的であれ起こしているからこそ、自分がミスをした場合は、日頃自分が世界に発している思いが自分に返ってきて、勝手に肩身の狭い思いをしたり、勝手に自分はダメだぽよと自己否定をして苦しむことになる。
その苦しみはミスそのものによって引き起こされているわけではなく、「優越感を感じるためにミスをした他人を息をするように責める」という自分の日頃の癖から自己否定が生じて引き起こされている。
この苦しみは自分の思考の癖が引き起こしていると気がつければいいのだけれど、大抵はそうはならない。(思考の癖なので直すことができる)
大抵は、ミスをしてしまった自分を徹底的に責めるか、自分のミスを正当化しようとして誰かを責めたり、言い訳を喚き立てるようになる。
いずれにせよ、そうすることによって「ミスをしない有能な自分」というイメージを崩すまいと必死になる。
「ミスをしない有能な自分」というイメージに必死にしがみつこうとする、執着する。
そうして「ミスをしない有能な自分」というきれいなセルフイメージを守ろうとする過程で、自分や他人を傷つけてしまう。
それはなぜかというと、自分自身が「ミスをする無能な人」を切り捨てる人間だからだ。
人を有能な人間と無能な人間に分け、無能な人間はどうなってもいいと思っている冷淡な思いがある。
その思いは自分や他人関係なく傷つける。
そもそも自分が絶対にミスをしないということは無理なことだ。
無理でなかったとしてもすごくハードルが高いことだ。
そういうものを人には当たり前に求めて、できなかったら人を責め立てるということをやっている。
相手を責めるのは自由だが、責めた時に起こした冷酷な思いはいつか必ず自分に跳ね返ってくる。
ミスをした人に対して起こした冷酷な思いは、自分がミスをした時に自分に必ず返ってくる。
そして苦しむ。
相手が冷酷な思いを起こしているわけではない。
それは相手の心の内側のことだから絶対に確かめようがない。
相手は自分に対して冷酷な思いを起こしているだろうと自分が勝手に想像しているだけで、思い込んでいるだけなのであーる。
その思い込みは日頃の自分の癖から生まれている。
相手に求める基準は自分にも適用される。
相手に求めていることを自分が相手であった場合に果たしていつも気持ちよく楽勝でできるのか。
そうでないのであれば、相手を責めるのは控えたほうがいい。
相手を責めても問題は解決しないし、苦しみを生む癖を増長させるだけだし、あとで自分が苦しむことが確実になるだけだからな。
声出して切り替えていこうと思う。