東京に来てから1年半以上が経つのだけれど、特段の観光という観光もしていないので、たまには行ったことのところをぶらっと散歩してみようかしらんという気になって、東京の山谷に行ってきた。
山谷というのは東京のドヤ街と呼ばれる日雇い労働者の街で、大阪の西成、横浜の寿町、これら3つが日本の3大ドヤ街なのだけれど、私は山谷だけは行ったことがなかった。
行ってみると、やはりドヤ街特有の独特の雰囲気があるのだけれど、大阪の西成の方が活気があって私は好きだ(ちなみに私は西成のドヤに2週間ほど滞在したこともある)。
シャッター街、古びた建物、路上で酩酊しているおいちゃん、あのうらぶれ感は何とも言えない。また山谷は、江戸時代の処刑場だったようだし、吉原遊郭の跡地であったりして歴史的にも面白い場所でもある(あまり歴史に興味がない私にとっても面白かった)。
ドヤ街とソープ街(店には行ってない)と処刑場に縁のある延命寺をぶらっと散歩し、駅前のモスバーガーでコーヒーを飲んで本を読んで帰ってきた。
かつては行ったことのないところに行くことが好きだったのだけれど(だからふらふらと国内外を放浪していたわけなのだけれど)、今では行ったことのないところに行こうが行くまいがどうでもよくなってきている。
行ったことのないところに行くというのは、ある意味で非日常を求めるということでもある。非日常は刺激的で、キラキラしていて、高揚感をそそるが、見方を変えればある種のドラッグのようなもので、それがなければ落ち着かなくなったり、それがない日々がつまらなく思えてきたり、それがないとやる気がなくなってきたり、逆にそれのために膨大な時間と労力とお金をつぎ込んでしまったりする。
そしてドラッグの刺激に慣れて摂取量がどんどんと肥大化していくように、非日常を求め続けていくと、それは日常となり、そうなると私たちは刺激に慣れ、さらなる刺激を求めて、新たな非日常を探し始める。これが非日常中毒になっている状態だ。
たまの非日常はいいのかもしれないが、中毒になると際限なく時間とお金と労力を空費する危険があるということを認識しておく必要がある(まぁ、頭ではわかっていてもやっちまうのだけれど)。
私もかつて非日常ばかりを追い求めていた時期があった。私は海外を思う存分旅するという非日常を求め、そこに飛び込んだわけなのだけれど、初めの内は刺激を刺激として楽しめていたものの、旅の途中からは何も感じなくなっていた。何もやる気が起きないし、日本では見られない珍しいものを見ているはずなのに、ほーん、という感想くらいしか抱くことがない。その1年ほどの旅は、高揚感で始まり虚無感で終わった。
普通の人の人生というのは、密度ではなく空虚さによって実感されるようなものなのではないか (保坂和志『人生を感じる時間』)
おそらく私の日常がそもそも空疎であり、それに耐えきれず私は非日常を求めたのだけれど、その非日常が続き、日常となり、それと同時に私も非日常の刺激に慣れ、再び私は空疎な日常に叩き込まれることになったのである。
非日常によって一時的に日常を誤魔化すことはできても、日常は必ずやってくる。日常が虚無的で自分を乱すようなものであれば当然そこからは逃げたくなる、非日常を求めたくなる。日常が整ったものであり自分を整えてくれるような日常であれば、非日常を渇望することもなくなり、たまの非日常を健全に楽しむことができるようになる。やっぱり日常を整え続けていくしかない。
山谷観光を終えて、家に戻るとやはり落ち着いた。
いつも通り玄米味噌汁焼き魚納豆を食べ、シャワーを浴びて、瞑想をして、ストレッチをして、本を読んで寝た。
ちょうどいい非日常だった。