おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常を整え続けていくだけや

先日、砂川文次さんの『ブラックボックス』という本を読んだ。

 

メッセンジャーは一生続けられる仕事じゃない。このことはサクマにとっても結構重大な問題として頭をもたげてきている。でもメッセンジャーをしているとメッセンジャーは一生できないという問題を直視せずに済む。ペダルを回して息を上げて目を皿にして街中を疾走している瞬間を積み重ねることで一生を考えずに済む。

 

ちゃんとするってなんなんだ。

 

ペダルを回して家に帰って寝る、朝起きてまたペダルを回して、それから何かのきっかけで暴発して破綻して、違う螺旋に回収される。遠くに行きたかった。遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。両親も弟も繰り返しを繰り返していた。おれは多分それが嫌だった。遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。

 

この小説を読んでいると、20代の頃の自分を思い出した。

 

私は20代のほとんどをフリーターかニートとして過ごし、こういう生活を一生続けることはできないよなー、とある種の不安や焦燥感をいだきながら過ごしていた。そしてそういう不安や焦燥感を誤魔化すために欲に流れたり、人を見下して自分を正当化したり、何かを一生懸命やっているふりをしていた。

 

いやー、ほんとそうだわ。

 

大学を出て就職をしなかったのも、特にやりたいとも思えない労働を繰り返すだけの人生、勉強と労働だけの人生にある種の虚無感なり徒労感を覚えたからで、国内外をぷらぷらと放浪したのは、好奇心というのもあったかもしれないけれど、そういう「繰り返し」から逃れたいという思いも多分にあったようにも思う。

 

そんな生活を送っていると周囲から「ちゃんとしろ」と言われたこともあったし、自分なりにちゃんとしないとなーと思うこともあったし、「ちゃんとするってなんなんだ」と疑問に思ったこともあった。

 

おそらく当時、私の周囲の人間が言っていた「ちゃんとしろ」というのは「正社員として就職しろ」という意味だっただろうし、小説の主人公が想定している「ちゃんとする」は「一生続けられる仕事に就く」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気なんだろうが、「一生続けられる仕事に正社員として就職する」というのはよくよく考えると「ちゃんとしている」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のスタイルっぽい塩梅のスタンス風の程度の茫漠かつ漠然とした幻想でしかない。

 

私は現在、正社員として働いていて、周囲にも正社員で働いている人がたくさんいるが、正社員として働いているただそれだけで不安や焦燥感がなくなるわけではない。現に精神的に不安定な人は容易に見つけることができる。

 

私の職場には定年退職後も働き続けている方がたくさんいるが、それでも70歳までしか働くことができず、一生続けられる仕事とは到底言えない。結局、みんな最終的には無職になる。

 

しかしながら、フリーターだろうとニートだろうと正社員だろうと無職だろうと、日常は続く。基本的な生活は続く。

 

私たちはいかに働いて、いかにお金を稼ぎ、いかに生活水準を上げ、いかに優越感を得るか、ただそれだけを考えすぎて、日々繰り返す生活の核となる部分、土台となる部分をないがしろにしてしまう。

 

夜寝る。朝起きる。顔を洗う。歯を磨く。飯を食う。排泄をする。散髪をする。ムダ毛を処理する。洗濯をする。掃除をする。料理を作る。整理をする。運動をする。体を洗う。

 

仕事や雇用形態は変わろうと、上記のような生活の核となる平凡な営みは繰り返される。だからこそそれらは大切で、軽視してはいけないのだけれど、そういう平凡なことをしていても他人は自分のことを「価値のある人間」と評価してくれない。優越感を得ることはできない。

 

だからそういう平凡なことは雑に済ませ、他人から「価値のある人間」と評価されるようなこと、優越感を感じられるようなこと、例えばブランド品を買い集めようとしたり、高級車を手に入れようとしたり、映える景色を求めて旅行に行ったりすることに時間と労力とお金をつぎ込んでしまう。日常ではなく非日常に注力してしまう。

 

非日常も繰り返すと必ず日常になる。日常からは絶対に逃れられない。そうであれば最初から日常と向き合い、自分なりに心地の良い日常にしていくしかない。

 

物事は放っておくと勝手に乱れていく。自分の心身も、身近な生活空間も、身近な人間関係も、定期的に整えていこうとしないと必ず乱れる。

 

だらだらと欲に流れたり、非日常を求めたりして、日常をないがしろし、放っておくと、自分の心身、生活空間、人間関係は乱れ、破綻する。日常を大事にしていく方向に舵を切らないと、小説の主人公がそうであったように、また別の形の破綻に向けた日常が始まる。

 

私も過去を振り返ってみると、優越感を得ようとすること、非日常を求めること、惰性で欲に流れること、それらを重視していた日々はどことなく息苦しかったし、心が荒んでいたように思う。

 

今は平凡な日常を繰り返しているだけだが、心身の調子は極めて良好で、退屈も特に感じることもない。

 

たけのこの里をただ漫然と食らうのと一粒一粒の舌触りやチョコのコーティングの溶け具合や甘さを感じるのとでは同じものを食べるのでも意味が違った。

 

こういう日常の何気ないことをじっくり味わうことも少しづつではあるができるようになってきた。

 

平凡な日常を整え続ける。ただそれだけや。