おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

結局日常や

先日、木皿泉さんの『さざなみのよる』という本を読んだ。

そこに以下のような箇所があった。

 

最初はこんな日がずっと続けばいいと願っていたが、それが当たり前のように続いてゆくと、同じことの繰り返しが苦痛に思えてきた。

 

あんな子に負けてしまったのかと、利恵の心はざわついた。

 

毎日同じように多量のタオルをたたんだり、床に落ちた人の髪の毛を一日何度も掃いたりするのを、もし彼女が見たら、と考えると急に恐ろしくなる。自分のこの状態はもしかして、みじめなのではないか。そして、そうなってしまったのは、すべてこの店のせいであり、それはつまり清二のせいなのだ、と思うようになっていった。

 

私たちは日常のルーティンを繰り返し、それに飽きてはまた違うものを求めるというサイクルを繰り返しながら生きている。

 

言い換えれば、日常をないがしろにして非日常を求めて生きている。

 

同小説の登場人物は結婚を機に床屋で働き始めた。

それまで床屋で働いた経験はなかったため、床屋で働くことは彼女にとって非日常だった。そして、月日が繰り返される内にその非日常は日常になっていく。

そんな時にかつて同級生だった人が絵の展覧会を開くという情報を得る。

そして、人の華やかそうな生活と自分の生活を比べてしまう。

私はこんな惨めな生活を送っている場合じゃない、こんな生活を送らされているのはこの店のせいだ、夫のせいだ。私ももっと別のことをして自分らしく生きよう。

そうして彼女は家出さえ決行しようとする。

 

結局彼女は家出をしなかったのだけれど、仮に家出をし、その時の自分が思い描いていた非日常が叶ったとしても、その非日常は繰り返されるうちに必ず日常となるため、また日常に飽き、人と自分の日常を比べ、惨めになり、非日常を求めてくというのを繰り返すことになっていただろう。

 

我々はネバギバの精神で非日常を求めてしまうが、どんなにあがいても結局は日常に辿りついてしまう。

 

非日常を求めて、行ったこともない多くの場所に行ってみようとしたり、会ったこともないない多くの人に会おうとしてみたり、持っていない多くのものを手に入れようとしてみたり、経験したことのない多くのことを経験しようとしてみたり。

 

たまに非日常を求めてしまうはある程度は仕方がないかもしれないが、求めつづけていくと、キリがないことに気づくし、結局はよく過ごす場所、よく会う人、よく使うもの、よく食べるもの、よく着るもの、つまりは日常に引き戻されるということに気づくことになる。

 

我々が非日常を求めてしまうのは日常が苦しいからで、どうして日常が苦しいかというと、日常生活を通じて「こんな自分はダメだ、こういう人間じゃないと価値がない」と他人から言われているような世界が立ち上がるくるからで、どうしてそのような世界が立ち上がってくるのかというと、自分自身が「こういう人間は価値がある、こういう人間は価値がない、だからこういう人間はダメなんだ」と世界を否定しており、その否定が自分に返ってきているからで、結局は自分自身が自分を含めた世界に対して寛容でないために、自分の日常を苦しくしているだけなのだけれど、そういう説明は、まぁ、ここまで書いておいて恐縮なのだけれど、面倒くさいので割愛するでやんす。

 

とにもかくにも、私たちは日常からは逃れられない。逃れ続けようとすると、次から次に新しい刺激を求め続けることになり、それすなわちジャンキー道を極めることになり、膨大な時間と労力とお金を一時的な快楽のためだけに投じてしまうことになってしまう。それだけは勘弁。

 

日常から逃れられないのだとしたら、もう日常を整えつづけていくしかない。日常を整えて一定の張りのある日常を心がけ、そのような日常を基礎に据え、たまの非日常をささやかながらに楽しむくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

一定の張りのある日常を送るに当たり特別なことは特にやることはなく、単純に炊事・洗濯・掃除・歯磨き・散髪・運動といった極々平凡だけれど大事なことを心がけるだけだ。

 

特に自分の道具を手入れしている義父を見るのが利恵は好きだった。同じことを長年やってきているはずなのに、とても慎重に道具をあつかうのだ。その様子が好ましく、清二が赤ん坊のときも、こんなふうにこの手で抱かれたに違いなく、そう考えると、この家には大事にしなくてはならないものがたくさんあるのだと利恵は思ったのだった。

 

利恵は、義父が手を洗う後ろ姿を思い出す。お客の髪をさわる前、仕事が終わった後、いつもゆっくりと念入りに手を洗っていた。そして、利恵のことも、そんなふうに丁寧にあつかってくれていたことを思い出す。

 

極々平凡なことをやる時であっても「同じことを長年やってきているはずなのに、とても慎重に道具をあつかう」ような心がけでもってやることが大事なのだろうし、そうした心がけでゆっくりと丁寧に行うことの積み重ねが逃避する必要のない日常を生み出していくのかもしれへん。

 

実際に、利恵は義父との日常を思い出し、家出することを思い直し、日常に戻る。繰り返しやることは同じかもしれないが、心がけが違っているだろうから、日常に張りがあっていい感じになるのだろう。