おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

非日常的カルボナーラと日常的ツナ缶パスタ

金曜日に会社の自称グルメな人がおすすめなイタリアンレストランに連れて行ってくれた。

 

そこでその人がおすすめのカルボナーラを注文し食べたのだけれど、これまで味わったことのないような、これまでカルボナーラと思って食べていたものは何だったのだろうというような、それほどまでに美味しかった。

 

そして次の日、私は昼食にツナ缶パスタを自分で作って食べたのだけれど、それはそれで普通に美味かった。このツナ缶パスタはその辺のスーパーで揃えた食材で作ったもので、作り方はYoutubeで見知ったものだ。

 

どちらが美味しいかと言われたら俄然前者のカルボナーラなのだけれど、ではもう一度食べに行きたいかと言われたら、タダなら食べに行きたいくらいで、あるいはまぁそのレストランの雰囲気も込みで非日常を味わうために行くのもありかもしれない程度で、男同士では絶対に食べに行こうとは思わない。時々作るツナ缶パスタで正直満足している。

 

私にとって前者のカルボナーラは非日常で、後者のツナ缶パスタは日常だ。

 

そして、日常が安定し整っていれば非日常を渇望する必要は特にない。

普通に美味しいツナパスタを日常において普通に自炊できれば、非日常的パスタは眼中に入らなくなってくる。牛のアキレス腱が入ったパスタは特に必要ではなくなり、ツナ缶入りのパスタで十分に満足感を得ることができるようになる。

 

私たちが非日常を求めるのは、苦しい日常を非日常で誤魔化そうとしているか、非日常的な経験の多さをもってして優越感を得ようとしているかのどちらかだ。自分の日常には価値がないと思っているから日常を整えようとしないし、自分の日常には価値がないと思っているから非日常に価値を見出して非日常をかき集めようとしている。いずれも日常を軽視していることには変わりがない。

 

もちろん普通に過ごしていれば、非日常を求めていなくても、何らかの流れで非日常を経験することはある。普通に話している流れで、気づいたら訳の分からない名前を冠したカルボナーラが眼の前に鎮座しているということもある。それはそれでいい。そしてそれは確かにとんでもなくうまい。

 

ここで日常が安定していれば非日常を味わったところで自分の日常を惨めに感じることはなく、ツナ缶パスタしか食べられないあちし、ぴえん、みたいなことにはならないのだけれど、日常を軽視して非日常を求めてばかりいると、非日常に執着している分、わけの分からないおしゃれな名前のパスタを食べている自分しか肯定できず、チャルメララーメンを食べている日常の自分のことを惨めだと思ってしまい、苦しくなるのかもしれない。

 

キラキラした非日常をいかに渇望していないか、いかに非日常的経験で自分を定義づけたり自分を価値づけたりしようとしていないか、いかに地味で平凡な日常を大事にして普段の日常を淡々と整えようとしているか、これらを心がけていくと日常が整うのはもちのろんなのだけれど、非日常に執着することが少ない分、偶然やってきた非日常を心から楽しめたり、非日常から日常へ切り替わる際のギャップにも苦しまなくなる(むしろ、心身を日常モードへ切り替えると落ち着くようになってくる)。

 

非日常はあくまでも人生のオプションでしかない。平凡な日常(普段の睡眠、食事、排泄、それらを整えるための諸活動)こそが基礎、主軸、根幹、根本、根源、中核だ。

 

これからもツナ缶パスタを大事にしていこうと思う。