自分の観察によって下される判断(聴くと伝えるの選択)が適切でない時があるかもしれないという前提からスタートすることはとても大切だ。
事実を解釈し、判断を下しているのは、あなたの価値観や信念というフィルターだ。
それらは、あなたの過去の経験(主には強い成功体験・失敗体験)からつくられるものであり、常に正しい答えを導き出せるフィルターではない。
櫻井将『まず、ちゃんと聴く。コミュニケーションの質が変わる「聴く」と「伝える」の黄金比』
ずっと愚痴や不平不満や文句を言っている人がいるのだけれど、それはそれでまぁ個人の自由なので良いとして、どうして愚痴や不平不満や文句が延々と出てくるのかというと、責めることが習慣になっているからだ。
そしてどうして責めることが習慣になっているのかというと、幼少期に責めることが習慣の大人が身近にいて、なおかつ責められることが多かったからだと思われる。
自分にとって都合が悪いことが起こったら誰かを責めればいい。
幼少期にそのような思考パッターンが身に付いた大人を間近に見、そのような大人たちと過ごし、そのような大人たちにとって都合が悪いとみなされた時に当たり前のように責められることが多かったために、自分も同様の思考パッターンが身に付いてしまった。
そして、陰毛が生え揃い自称大人になっても、自分の思考パッターンを客観視することができず(自分の思考や判断や感情や行動をぼさっと客観視できる能力こそが人間と他の動物を隔てる能力の一つなのだけれど)、自分にとって都合が悪いこと、自分の思い通りにならないことがあれば誰かを責めることが至極当然となり、根深い習慣として陰毛の先端にまで染み渡ってしまっている。
責める習慣というのはある種の快楽をもたらす。
誰かを悪として責め立てると、責めている間は、自分は「清く正しく善良な人間」というところに立つことができる。こんなにも価値のある人間である自分は存在してもいいんだとある種の安心感を覚えることができる。
誰かを責めることによって得られる快楽には中毒性があり、その快楽を得るためには責めるべき悪が必要で、それ故に責める習慣が身に付いていると世界が悪く見えてくる。
本来無色透明な事実を悪として捉えるようになり、その悪を責めて自分は清く正しく善良な人間、誰かに苦しめられている可哀想な人間、こんなに苦労している憐れむべき人間、という誰かに大事にされるべき価値のある自分というものを感じようとする。そうして安心感を得ようとする。
まぁ、そこには誰かに大事にされたいという根深い寂しさや、何もない自分は大事されない、自分の価値を示さないと誰も大事にしてくれないという思い込みや不安があるわけなんじゃ(だから人を責めて「清く正しく善良な自分像」を必死にアッピールしようとする)。
そしてその根深い寂しさや思い込みや不安は、幼少期に「責める習慣が身に付いた自称大人」に育てられ、その大人にとって都合がよければ褒められ、その大人にとって都合が悪ければ罰せられ見捨てられた経験を繰り返ししてきたからで、今現在責める習慣がガチムチに身に付いている人も被害者と言えば被害者であり、実際に先祖代々受け継いできた責める習慣によって、世界が悪く見え、自分や周囲の人間との人間関係がうまく形成することができず、多くの点で苦しむことが多い。そしてその苦しみ故に、苦しみを誤魔化すための非日常的なエンタメが楽しくて仕方がない。
(根深い寂しさ故に、自分はこんなに価値のある人間なんだということを示すためのアクセサリーとして大金が必要になり、また根深い苦しみ故に、苦しみを誤魔化すための非日常的なエンタメのためにも大金が必要になるため、私たちは大金を手に入れることを渇望し、夢見、日々追いかけ回している)
責める習慣によって世界が悪く歪む。世界が冷たく見えてくる。
逆に大事にする習慣によって世界が善く歪む。世界が温かく見えてくる。
そうして悪かろうが善かろうが自分の捉え方によって歪んだ世界に一人ひとりが生きることになる。
私たちは無色透明な世界を無色透明な世界として捉えることはできず、必ず歪めて捉えることしかできない(無論オムロン、歪みを少なくしていく努力は必要だ)し、どうせ自分なりに歪めてしまう世界の中でしか生きられないのであれば、いい感じに歪んだ温かい世界で生きたほうがそらぁ得じゃろう。
自分や他人を責めるという短期的快楽に溺れてしまうと、悪く歪んだ冷たい世界に生きることになり、トータルとして享楽はマイナスに転じる。(責める→世界が悪く見える→責める、という無限ループを何十年と繰り返し苦しみ続ける)。
自分や他人を受容し、大事にするためにはそれなりの努力を要するが、その努力によって善く歪んだ温かい世界に生きることができ、トータルとしての享楽はプラスに転じる(無論オムロン、他人から「寛容で温かい人間」として「見られる」ためのアクセサリー的な努力は世界の歪みを悪い歪みから良い感じの歪みに変えることはない。その手の努力はこういう人間として見られなければ他人から見捨てられるという不安や恐怖によって突き動かされていて、不安や恐怖が原動力の努力は不安や恐怖に満ちた世界=自分なりの解釈しか生み出さないからな)。
自分が捉えている自分なりの世界は自分の日々の思考習慣によって変化していく。
(だからゴータマ・シッダールタ先輩は「業=根深い習慣」を問題にし、業を良いものに変えちゃいなベイビー、と強く勧める)
責める習慣、粗末にする習慣が身に付いていると苦しみの世界に生きることになる。
受容する習慣、大事にする習慣が身に付いていると喜びの世界に生きることになる。
これが幸不幸に関係する原理原則になる。
自分は世界をどのように捉えることが多いのか。
それによってこれまでの自分の思考習慣がわかる(責めることが多いのか受け入れて大事にすることが多いのか)。
そしてその思考習慣は幼少期に多くの時間を過ごした誰かの影響によってガチムチに身に付いたものかもしれないけれど、その誰かを責めても自分の思考習慣は変わらない、それどころか苦しみを生み出す習慣をさらに強化してしまうことになる。
責める習慣がガチムチに身に付いている場合、まずは自分の身体や持ち物など身近なものを大事にしていくといいと思う。
そして責めている自分に気が付けるように瞑想なり日記を通じて、自分を俯瞰する習慣を作るといい(日記はのめり込むと自己正当化の無限ループにはまり込み、自分の正しさしか見えなくなってしまうため、自分の考えや感情を眺めることを目的にしたほうがいい)。
そうしてだんだん自分が受容できる範囲、自分が大事にできる範囲を広げていくと良いと思う(だからといって範囲外のものは粗末に冷酷に扱ってもいいというわけではなく、時間や労力の限界、己の能力の限界せいで大事にしたくても大事にできないという状況が望ましい)。
あとは自分の限界の範囲(何かを大事にしようと思うと一つ一つに集中する必要があり、一定の努力が必要であり、それなりの時間と労力がかかるため、その限界は思っている以上に狭い。一方で、何かを粗末にするためには次々と罵倒し、否定し、見下し、切り捨てていけばよく、集中することも努力することもいらないため、その限界は凄まじく広い)で自分自身と身近な人と身の回りのものを大事にしていく日常を送るだけだ。
すると心身の健康、経済的安定、良好な人間関係を得ることができ、あらゆる物事を受容し、肯定することができる。どうしようもなく幸福にならざるを得ない。
声出して切り替えていこうと思う。