おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「正しい自分」に執着しているということ

協力関係において、テイカーが「視点のズレ」を考慮することはまずない。自分の観点からしか物事を見ようとしないので、ほかの人が自分のアイデアや意見にどんな反応を示しているか、結局気づかない。

 

 調査では、他人の視点から見るといっても、たいていの人は自分のものの考え方からでることはなく、「この場合、『私』ならどう感じるだろうか」と自問する傾向があることがわかっている。そうやって贈り物をすれば、自分が選んだ品を自分が受けとった喜びはイメージできる。

 ただし、これは受けとる側が経験するのと同じ喜びではない。受けとる側は好みが違っているからだ。

 

 人を真の意味で助けるためには、自分のものの見方の外に出なければならない。マイヤーがしたように、こう自問する必要があるのだ。

「この場合、『受けとる側』はどう感じるだろうか」

アダム・グラント『GIVE&TAKE 「与える人」こそ成功する時代』

 

私たちは陰毛が生えているというだけ、一定の経験があるというだけ、公的書類上の年齢の数字がある程度あるというだけ、ただそれだけで大人を自称し、自分のことを物事の道理がわかり、物事をありままに捉えることができる正しい人間として自惚れているのだけれど、それ故に世界や他人は自分の見ているとおりにある、思っているとおりにあると思い込んでしまう。

 

そして世界や他人が自分の見ているとおりでなかった時や思っているとおりでなかった時に、敵意や憎悪や怒りが湧き出てきて、罵詈雑言を喚き散らし、ネットに誹謗中傷を書き連ねるということは、その分だけ、厳然たる現実を受け入れようとせず、自分の思い込みに執着しているということになる、正しい自分というイッメージ、プライドを捨てきれずにいるということになる。

 

世界や他人は自分の思い込みとは別に存在している、ということが陰毛が生え揃ってから数十年経った今もわからないということになる。

 

現実が自分の思い込み通りに存在するのであれば、私たちは絶対に死なないということになる。

 

私たちは日々今日は死なないという思い込みの中に生きていて、そう思い込んでいるからこそ、一日一日を楽勝で無駄にできる。

 

惰性ネットに1日20時間を費やすことができる、ワンピースを全巻再読することができる、自分の身体や心や持ち物や身近な人を楽勝で粗末にできる。

 

思い込みが生じてしまうのはどうしようない。

私たちは自分の思い込みの中でしか生きることができない。

 

しかし、現実が自分の思い込みと違った場合、現実を受け入れて、自分の思い込みを現実に合わせるだけでいいのだけれど、正しい自分という幻想に執着してそうすることができなくて、自分の思い込みに現実をフィットさせようとする。

 

そこに無理が生じる。強制が生じる。支配が生じる。ストーカーが生じる。

 

自分の思い込みと現実とのギャップというのは注意を払っていれば日頃から感じることができるのだけれど、感じない人は本当に感じないため、そういう場合は自分のやり方で植物を育ててみるといいかもしれない。

 

誰にも聞かず、自分は正しいという前提の下、自分なりのやり方で植物を育てるとおそらく大抵の場合、その植物は枯れてしまう。

 

それは自分がこうすれば植物はよく育つだろうという思い込みと植物が本当によく育つために必要なことの現実が食い違うからだ。

 

例えば「私が植物だったら毎日水が欲しいだろう」と思い込み、植物のために毎日水を上げてしまうが、植物からすると水は土が完全に乾いてからもらったほうが気持ちが良かったりする。

 

そのような自分の思い込みと現実とのギャップが植物が枯れるという結果としてわかりやすく現れてくる。

 

ここで正しい自分像に執着していると、なんで私は毎日水をやって大事にしているのにこの植物は枯れてしまうんだ、私は正しい、私は間違っていない、この植物は不良品に違いない、不良品を売りつけたコーナンが悪い、コメリが悪い、カインズが悪い、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で、自分にとって不都合な結果を全部他人や社会のせいにし、自分の思い込みや執着している自分像を省みない。自分の間違った行いを省みない。

 

正しい自分像に執着しているから現実を受け入れられずに罵詈雑言を喚き散らす。

 

罵詈雑言を喚き散らすということは正しい自分像に執着して現実を受け入れきれていないということだ(罵詈雑言を口には出さなくても心の中で思っていてもそれは同じことだ)。

 

そうして間違った思い込みのまま間違った行動を繰り返し間違った習慣が身につき苦しみの無限ループにはまり込んでしまう。

 

愚痴不平不満恨み辛み妬み嫉みがどうしようもなく湧き出続ける人生を送ってしまう。

 

まじで苦しいと思う。

 

んじゃあ、どうして私たち自称大人は正しい自分像にこうまでもしがみつくのかというと、端的に寂しいからだ。

 

正しい人は大事にされる。

間違った人は見捨てられる。

 

そのような価値観の中に生きている。

 

だから間違った人を徹底的に責める。間違った人はどんなに傷つけても苦しめても攻撃してもいいと思っている。間違った人を見捨てる。

 

だから自分が間違ってしまうと、人から責められる、傷つけられる、苦しめられる、見捨てられる、大事にされないと思ってしまう。さらに、間違った人を苦しめようとする自分の日々の習慣によって、自己否定が生じて苦しくなる。だから自分が間違っているということを認められない。正しい自分像にしがみつく。

 

正しい自分像への執着の強さは、日頃から自分が間違っている人をどれだけ責めようとするのか苦しめようとするのか馬鹿にするのか軽蔑するのか(口には出さずここの内側でで思っているだけでも同じことだ)、その強さと比例する。

 

すでに苦しいから正しい自分像に執着して人を責める。

人を責めるからますます正しい自分像に執着する。

そして自分が執着している正しい自分像が崩れそうになるとかっと怒る。

私は正しいんだ、お前が間違っているんだと人を責める。

そうして間違った思い込みのまま間違った行動を繰り返し間違った習慣が身につき苦しみの無限ループにはまり込んでしまう。

 

寂しさ、見捨てられる恐怖、正しい自分への執着。

 

良い子でないと悪い子とみなされて見捨てられる、罰を与えられるという幼少期に植え付けられた懲罰思想がガチムチに作用している。

 

幼少期の思想からまだ脱却できずに、その思想の中にガチムチに安住していて、自分は自称大人として常に罰を与える側に立ちたいと思っている。

 

自分にとって都合の悪い存在は罰しなければならない。

これは人間の勝手な思い込みや思想でしかない。

 

この世の原理原則ではない。

 

この世の原理原則としては、理由を問わず、粗末する習慣が身に付いているとその習慣によって心が苦しむことになる、大事にする習慣が身に付いているとその習慣によって心が穏やかになる。

 

自分は絶対に正しいと思い込んでいる人が懲罰思想に染まりきっているともうどうしようもない。

 

ゴータマ先輩やキリスト先輩や老子先輩を始め、異次元の賢者たちの声でさえ一切届かず、ひたすらに苦しみの無限ループの中に落ち込み続けていくだけだからな。

 

懲罰思想や粗末にする習慣が親から子へ伝播していくように、原理原則に沿ったものの捉え方や大事にする習慣も他人へと伝播していく。

 

その習慣を極めきったのがゴータマ先輩やキリスト先輩や老子先輩や異次元の賢者たちであり、それ故に諸先輩方の近くにいた人間も原理原則にそった考え方や大事にする習慣が身に付いていき、その結果、心が穏やかになっていったのだろう。

 

己の日々の思想や習慣を省みた時、そこに懲罰思想や粗末にする習慣はないか。

 

声出して切り替えていこうと思う。