おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

地獄めぐりをどこでしようかしらん

もし、われわれが、ゴミのなかで生活しているためにゴミにたいする不快感を感じなくなるなるならば、われわれ自身がゴミをまきちらす人間になる可能性がある。自分の苦しみにたいして無感覚になっていれば、他人の苦しみにたいしても無自覚になりがちである。侮辱的な扱いを受けつづけていれば、自分自身の尊厳にたいする感覚を失うだけでなく、他人の尊厳にたいする感覚も失ってしまう。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

何らかの事情によりゴミの中で生活していたとして、どうしてそのゴミを片付けずに、ゴミがある状態に慣れてしまったのかというと、それは自分が自分のことを大事に思えていないからなのではないか。

 

自分のことを大事に思えていないために、苦しんでいる自分のこともどうでもいいと思え、楽勝で放っておくことができる。何も感じずにいることができる。

 

人から侮辱的な扱いを受け、自分の心が傷ついた時に自分の心が苦しんでいることに気が付かない。むしろ、大事ではないこんな自分はこんな扱いを受けて当然だとさえ思っている。相手からの見方をそのまま受け入れ、自分も相手と同様に自分のことを侮辱している。

 

自分が自分のことを悪と見て、こんな自分のために動くのは時間と労力の無駄と感じ、持ち前の懲罰思想で自分を罰している、自分で自分の面倒を見ることを放棄している。

 

(相手は相手にとっての世界の見え方があり、その見え方の中で私のことを価値のない人間=悪として見ていて、悪は罰するものだ、悪を苦しめることは正しいことだという悪への懲罰思想に則って私を屈辱的に扱おうとしているに過ぎない。相手にとって私のことが悪に見えているのは事実だけれど、「そう見えている」からといって「そうである」わけではない。相手は私の実際のことは何もわからない。相手は私の全てを知っているわけでは絶対にない。相手は自分なりの判断基準や思考パッターンで私のことを判断しているに過ぎない。相手は自分は正しい、自分は物事を見ることができると自惚れていて、自分にとって見える世界がそのまま世界のありかただと思い込んでいるに過ぎない。自分にとってはただそう見えるだけのものを、それは誰にとってもそうなんだと段違いな勘違いをしているに過ぎない。このことがわかれば、相手の物事の見え方とその見え方に基づいた行動を、相手にはそう見えているんだなー、と距離を置いて相手の見方をそのまま受け取らずに自分の心を守ることもできるのであーる。)

 

自分で自分のことを粗末にすると、自分のことが価値のある人間だと思えなくなる。

自分のことが価値のある人間だと思えないと、自分で自分のことを粗末にしてしまう。

 

この無限ループ。

 

このループが苦しみを延々と作り出し、仏教では地獄といわれる。

地獄というのはどこかの物理空間のことを指すのではなく、自分の心の状態を指す。

 

この地獄により、自分の中から延々と苦しみが湧き出てきて、日常が苦しくなる。

日常が苦しくなるからこそ、その苦しみを忘れさせてくれる刺激的な非日常を渇望する。

苦しみを強い刺激で誤魔化そうとする。

(酒・タバコ・ギャンブル・薬物・風俗・浪費・旅行・音楽・ネット・ポルノ・マンガ・ゲーム・読書・仕事、どんなものであれ苦しい日常から逃避するためのものは非日常になる)

 

この苦しみの無限ループから抜け出そうとして、この苦しみの原因を人や社会に見出し、人や社会を悪者にし、持ち前の懲罰思想で人や社会を責め立てる場合もある。

 

苦しみを怒り(=強い刺激)で誤魔化そうとする。

 

他人を責めてもその苦しみの無限ループからは抜け出せることは絶対になく、むしろその深みはまり、絡み取られていくだけだ。

 

自分で自分のことを粗末にすると、自分のことが価値のある人間だと思えなくなる。

自分のことが価値のある人間だと思えないと、自分で自分のことを粗末にしてしまう。

 

この苦しみの無限ループから抜け出すためには、普段から自分や人を苦しめるために発揮している持ち前のクリエイティビティー、普段から自分や人を悪としてみなすために発揮している持ち前のクリエイティビティーを存分に発揮し、発想を転換し、別の無限ループに乗り換えればいい。

 

自分で自分のことを大事にすると、自分のことが価値のある人間だと思えるようになる。

自分のことが価値のある人間だと思えると、自分で自分のことを大事にする。

 

この無限ループ。

 

このループが平穏と喜びを延々と生み、仏教では極楽と呼ばれる。

極楽というのはどこかの物理空間のことを指すのではなく、自分の心の状態を指す。

 

このループに入ると、日常生活が平穏で苦しくなくなる。

 

するとその分だけ、苦しみを強い刺激の非日常で誤魔化す必要もなく、苦しみを誰かのせいにして怒りという強い刺激で誤魔化す必要がなくなる。

 

(極楽に入ると自分の心の状態がよく見える。自分の善良できれいな側面だけではなく、醜く邪悪で冷酷でどうしようもない自分の側面も見える。そのようないわゆる悪の側面を持ち前の懲罰思想で責め立て攻撃してしまうと、その極楽は地獄と化す。極楽の状態というのは、自分の心に1点の悪もない状態ではなく、悪の側面はあるのだけれど、その悪の側面を正当化することなくその悪を悪として受け入れている状態、その悪を責めることなく反省できている状態)

 

ただたたこの無限ループに住して、自分を大事にし続けていくだけだ。

 

地獄ループから極楽ループに切り替えるためには、自分は自分にとって絶対に大事であることに気づいて、自分を大事にする行いを心がけていくか、あるいは、自分を大事にする行いに心がけて、自分は自分にとって絶対に大事であることに気づいていくか、そのどちらかだ。

 

自分は自分自身と生まれてから死ぬまでどんな時も文字どおり一生涯付き合っていく。

そして自分を直接的に大事にできるのは自分自身しかいない。

 

自分の身体や心に常に直接的に注意を払い、ケアしてあげられるのは世界に自分自身しかいない。

 

他人が私の代わりに寝たり運動したりすることはできないし、他人は私がどのような感情や気持ちを起こしているかを正確に把握できないし、十分に共感してあげることもできない。それらは全て自分自身しかできない。

 

自分のことを気にかけ、自分のために動いてあげられるのは世界に自分自身しかいない。

 

周囲の人がどんなに自分のことを大事にしようとしても、自分が自分を責めたり傷つけたりすると実際に苦しみが生じる。周囲の人が何もしていなくても、自分が自分を責めたり傷つけたりすると実際に苦しみが生じる。周囲の人がどんなに自分のことを粗末にしても、自分が自分を責めたり傷つけたりしなければ実際に苦しみは生じない。

 

このことをドットールで豆乳ラテも飲みながら冷静に考えれば、自分は自分にとって絶対に大事にだということがわかってくる。

 

(ちなみに私たちは自分の価値と世間的価値を同一視し、両者を連動させてしまい、世間的価値がないこんな自分には価値がないと段違いな勘違いをしてしまい、持ち前の懲罰思想でこんな価値のない自分は粗末に扱ってもいいと思い込んだり、世間的価値があるこんな自分は人よりも価値がある人間であると段違いな勘違いをしてしまい、価値のない(ように見える)人のことを粗末に扱ってもいいと思い込んだりしてしまう傾向が極めて強い)

 

あるいは、自分を大事にするための具体的な習慣として以下のものがあるので、まずはそれを心がけて、自分にとっての自分の大事さがわかってくる。

 

睡眠

炊事

洗濯

掃除

整理整頓

運動

入浴

瞑想

読書

書くこと

 

これらの習慣の目的は、やらないといけないからやる、上位◯%の人間になって他人を見下すためにやる、人から価値のある人間として見てもらえるためにやる、人から嫌われないためにやる、怒られないためにやる、というものではない。

 

恐怖や不安や強迫観念をモチベーションにしたり、自分や他人を粗末にするためにやるのではなく、単純に自分が自分を大事にするためにやる、自分が自分をちゃんと見て、自分が自分を整えるためにやる、ただそれだけだ。

 

そして驚くことに、自分を大事にするための習慣は至極平凡なもので、大金も必要ない。

やろうと思えば誰にでもできる類のものばかりだ。

(逆に、自分や他人を粗末にするための習慣、自分の苦しみを誤魔化すための非日常(強い刺激)には大金がかかることが多い)

 

自分が今、地獄ループと極楽ループのどちらのループの中にいるのか。

 

基本的に自分のことを価値がないと思い、自分のことを粗末に扱うことに慣れきっている人は、部屋を見ればわかる。

 

こんなに価値のない自分に清潔な部屋は必要ない、こんなに価値のない自分のために掃除された部屋を用意するのは時間と労力の無駄だと思っているため、部屋が乱雑で汚い状態のまま放置されている。

 

こんなに価値のない自分の価値を価値のあるもので補おうとするため、手っ取り早く人から価値のある人間として見てもらえそうなもの(それらは基本的に使われていない)が部屋に山積している。

 

自分には価値がなく、よってそんな自分の時間や労力やお金にも価値がないとしか思えず、実際に使わないもの(持っていないも同然のもの)に時間と労力とお金を使っても何とも思わないため、部屋の中に使わないものが山積している。

 

自分には価値がなく、よってそんな自分が日常的に使っているものにも価値がないとしか思えないため、自分が普段使っているものがケアされていなかったり、床の上に乱雑に放置されていたり、その辺のゴミのように扱われている。

 

というようなことを踏まえて自分の部屋を見回してみる。

 

いやー、地獄は大分県の別府にしかないと思っていたけど、まさかここにありましたか。

はは。

 

見たくない自分を見ないための非日常として大分県の地獄めぐりに馳せ参ずるか、自分のことを粗末にしてきた自分の所業と向き合うために自室の地獄めぐりに身を投じるか。

 

どないしよう。

 

よーし、とりま酒だ。

忘年会という名の大義名分の下、先輩権力を使って後輩たちを招集し、飲酒に励み、その後でじっくりと考えることにしよう。

 

声出して切り替えていこうと思う。