おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

類は友を呼び、殴り殴られる

『日曜日たち』

 夫や恋人に殴られた女性が、次第に「自分が悪いから殴られるのだ」と思い込むようになるという説は往々にして的を射ている。それは殴られているときの自分しか、見えなくなってしまうからだと乃里子は思う。

吉田修一『日曜日たち』

 

私たちは多くの場合、懲罰思想に毒されていて、自分が気に食わない人間を悪とみなし、悪は苦しめてもいいと当然のように思い込んでいる。

 

相手の一部分を見て、それが気に食わなかったら、相手全体を悪の塊のように見てしまう。そして悪は殴って傷つけて苦しめてもいいと思っている。

 

だからこそ、自分が殴られた時に「殴られたのは自分が悪いからだ」と思い込んでしまう。

 

無論オムロン、殴る方も「悪いやつは殴ってもいい」と思っているから相手を殴る。

 

(冷静に考えれば、私にとって相手が「悪に見える」からと言って、相手が「悪である」ということにはならないし、相手にとって私が「悪に見えている」からと言って、私が「悪である」ということにはならないのだけれど、懲罰思想に毒されていているとそういったことが見えず、とにかく悪は苦しめなければならないとしてフルボッコにしようとする。そしてすぐに怒る、すぐに殴る、すぐネットに罵詈雑言を書き込む)

 

こうして殴る殴られるという関係が成立するのだけれど、やはり類は友を呼ぶというのは本当で、思考パッターンが似ている者同士はどうしようもなく惹かれ合う。

 

粗末にする思考パッターンの持ち主は別の粗末にする思考パッターンの人と惹かれ合い、お互いを粗末にし合う。

 

自分のことを心の奥底では悪い人間、価値のない人間と思っていて、持ち前の懲罰思想によって自分が自分のことを責めている、否定している、攻撃している、無視している。

 

だから自分のことを実際に粗末にする人がいるとしっくりくるし、人にこいつは粗末にしても良いというような気を起こさせやすくなる。

 

懲罰思想の持ち主は別の懲罰思想の持ち主をどんどんと引き寄せていく。

まさに引き寄せの法則。類は友を呼ぶ。

 

逆に大事にする思考パッターンの持ち主は別の大事にする思考パッターンの人と惹かれ合い、お互いを大事にし合う。

 

思考パッターンが似ている者同士で人は惹かれ合う。

 

自分と同様の思考パッターンの人同士で引かれ合い、その共同体の中で喜びや苦しみが生み出されていく。

 

自分が苦しみを生み出すような思考パッターンを持っていた場合、自分の思考パッターンが変わらなければ、環境をどんなに変えても、どうしようもなく苦しみを生み出す人間関係を自分が生み出してしまう。

 

そのため、年齢を重ね、環境が変わっても同じような種類の苦しみに直面し、抱え続けることになる。

 

自分が人間関係の中で苦しんでいるのは相手のせいでも社会のせいでもなく、自分の懲罰思想のせいなのかもしれない。

 

自分が自分のことを大事な存在だと思わず、こんな自分は粗末にしてもいいと思い、自分で自分のことを粗末にしているから、自分を粗末にする人が引き寄せられてくる。あるいは周囲の人からその人「粗末にする側面」を引き出してしまう。

 

そして人から粗末にされても、それは常日頃から自分が自分に対してやっていることなので、何の違和感も覚えない、むしろやっぱり私は悪い人間だったんだとしっくりくる、もっと自分のことを罰して欲しい、苦しめて欲しいとさえ思うのかもしれない。だから、やめて欲しいと真剣に言うことができないのかもしれない。

 

んじゃあ、どうすればいいのかというと、自分が自分を大事な存在として扱い、日常生活において自分を大事にしていけばいい。ちゃんと寝たり、栄養バランスのとれた食事を心がけたり、適度な運動をしたり、部屋を掃除したりすればいい。

 

そうすると、懲罰思想の強い人や粗末にする人は遠ざかっていき、大事にする人、同様の思考パッターンの人が引き寄せられてくるということになる。周囲の人からその人の「大事にする側面」を引き出すことができるということになる。

 

私の知人女性の中に、付き合う人からことごとく大事にされないと嘆いている人がいるのだけれど、おそらくそれは、その女性が自分自身を粗末にすることを当たり前とし、自分自身を大事にするということが習慣として身に付いていないからだろう(きれいな自分、善良な自分というイッメージは大事にしているが、そのような外向けの虚像と実際の自分は全く異なるということを理解していないからだろう)。

 

日々人から粗末にされていると感じることが多い人は、何よりも自分自身が自分のことを粗末にしている可能性が大いにある。

 

人のせいにして、人を責め立て、人をどうにかして変えようと努力するより、自分の思考パッターンや自分の習慣を変えていく努力をするほうがはるかに現実的で、効果的で、効率が良い。

 

結局は自分の思考パッターン、自分の日々の習慣なわけだ。

 

声出して切り替えていこうと思う。