「この発言や行動にも肯定的意図があるのだろう」
「この人にはどんな景色が見えているのだろう」
と想像力を働かせてみるだけでも、聴く技術は維持されるだろう。
櫻井将『まず、ちゃんと聴く。コミュニケーションの質が変わる「聴く」と「伝える」の黄金比』
ある人の言動にはどのような意図があるのか、どのような思いがあるのか、どのような考えがあるのか、その人には世界がどのように見えているのか、そしてそれはなぜなのか。
相手としかと向き合うためには、上記みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽいことを考える必要があるのだけれど、私たち自称大人は自分は正しいという前提に立ち、自分が感じたとおりに相手はあると思い込んでしまう。
相手のことを自分の都合よく「この人はこういう人だ」と決めつける(自分が自分のことを「清く正しく善良な人間」として感じるために相手のことを自分の都合の良いように決めつける)。
自分にも自分なりの思いや考えや感情や世界の見え方があるように、相手にも相手なりの思いや考えや感情や世界の見え方があるのだけれど、そんなことはシカッティングして、「私は正しい」という思い込みにしがみつく。
相手が自分の思い通りでなければ、自分の正しさが崩れるため、相手を否定し、相手を責め立て自分の正しさに合わさせようとする。
それほどまでに自分の正しさが崩れることが恐ろしいわけなのだけれど、それはなぜかというと自分は正しいという大前提のもと、これは間違いないと思ったものに凄まじいほどの時間と労力とお金を投じてきたからだ。
自分の正しさが揺らぐとそれらは全て無駄ということになり、その無駄という現実を受け入れたくないためにより一層自分なりの正しさにしがみつく。
相手を思い通りにできるようになれば幸福になれる。
お金をたくさん手に入れれば幸福になれる。
この職業につけば幸福になれる。
権力を手に入れれば幸福になれる。
賢くなれば幸福になれる。
結婚をすれば幸福になる。
私たちは「自分は正しい」という前提のもとに自分なりの幸福観を持っていて、多くの場合、その幸福観は優越感に基づく幸福観になっている。
世間的価値をかき集め、自分と誰かのそれを比べ、その差をもってして相手を見下す、相手を馬鹿にする、相手を否定する、相手を軽蔑する、相手を苦しめる、そうすることによって優越感を得ることができ、その優越感を幸福と勘違いし、自分に優越感をもたらしてくれそうな何かを日々血眼で探し求めている。
自分は正しいという前提のもと「私は他人と違ってこんなに価値のある人間なんだ」ということを示すことに膨大な時間と労力とお金を投じる。
そして自分の正しさが崩れると、「私は他人と違ってこんなに価値のある人間なんだ」ということを示すために努力してきた一切合切が無駄ということになってしまう。
(私たちが日々かき集めている世間的価値というのは諸行無常の理によって必ず失うことになるため、世間的価値に執着して世間的価値をかき集め、世間的価値を根拠にして価値のある自分を作り上げようとすることはそもそも無駄でしかないのだけれど、私たちにはそれがわからないし、その無駄を認めようとしない)
だから必死に自分の正しさにしがみつく。
それ故に、相手の言動や意図を決めつけることしかできない。相手が見ている景色を決めつけることしかできない。その結果、相手が見えない。
見えているのは自分なりの想像上の相手だけであり、つまりそれは自分の妄想とやり取りをしているようなもので、そらぁ、実際の相手と自分の妄想は必ず大きく異なるのだから、日々話が通じず、噛み合わず、互いに良好な人間関係を築くことができず、だけどその結果の責任は相手にしか見いだせず、自分は正しい、おかしいのは相手なんだとしか思えず、その結果孤立無援の状態になるのは必然だろう。
自分はありのままに世界が見えていないミリオン・アホンダラー・ベイビーという前提に立たなければ、相手をよく見ようと思えず、世界をよく見ようと思えず、ガチムチの思い込みの中で過ごすことになり、実際はどうなのかしらんと考える余地を失ってしまう。
(どんなに考えても私たちが自分なりの思い込みの中で過ごすことには変わりはないのだけれど、自分の思い込みと現実とのギャップが一定度を超えると、幸福な生活に不可欠な良好な人間関係が凄まじく築きにくくなる)
陰毛が生え揃い自称大人のおれ、大丈夫かしらん。
声出して切り替えていこうと思う。