テイカーは、ナルシスティックな、実物以上によく見える自分の写真を投稿していた。(中略)投稿している情報は、押し付けがましく、自己中心的で、もったいぶっていると見なされ、使っている引用も、傲慢な印象を受けると評価された。テイカーはまた、フェイスブックの「友だち」がやたらと多かった。自分をよく見せるために、上辺のだけのコネクションをせっせとつくり、頼み事ができるように連絡を保っているのである。
アダム・グラント『GIVE&TAKE 「与える人」こそ成功する時代』
「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解するうえで重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
いくら幸福そうに見える人も、実際には苦しんでいることが多いのだけれど、んじゃあどうして、自称大人の私たちの多くは苦しんでいるのかというと、実際の自分を大事にせずに価値のある自分像に囚われているからだ。
実際の自分が見えない、実際の自分を見ようとしない、受け入れようとしない、無視する、攻撃する、責める。
自分が自分を大事にしていないから苦しみが生じるのは当たり前のことなのだけれど、私たちは価値のある自分像という虚像を自分自身だと本気で思っていて、その虚像を大事にしているが故に、自分の苦しみが自分が自分を粗末にしていることから生じているとはどうしても思えない。
自分がどうあるかではなく、人からどう思われるかだけが軸になっている。
人から金持ちと思われたら自分は金持ちということになると思い込んでいる。
人から善良な人間と思われたら自分は善良ということになると思い込んでいる。
人から価値のある人間と思われたら自分は価値のある人間ということになると思い込んでいる。
人から価値のない人間と思われたら自分は価値のない人間ということになると思い込んでいる。
だから、人から価値のある人間として見てもらおうとして、そのための記号をかき集める。
不特定多数の人が価値を見出してくれそうなものをかき集め、自分の外向けイッメージや外見を善人や価値のある人間のように見せることに心血を注ぐ。
金、地位、名声、写真、投稿、フェイスブックの友だち数。
人からAと思われたら自分はAということになる、という思考パッターン。
よくよく考えるとこの思考パッターンは間違っていて、人からAと思われたからといって、私はAであるということにはならない。
自分にはそう「見える」というものが、そのまま現実ではないように、他人にそう「見える」からと言ってそれがそのまま現実であるということにはならない。
私が人生の膨大な時間と労力とお金を注いでかき集めた記号、その記号を根拠にして作り上げた外向けの外見上の虚像、そしてそれをもとに他人が他人なりに歪めて解釈し、作り出し、そうだと思い込んでいる私に関する虚像。
そこには現実の等身大の自分はなく、全てはイッメージ、虚像、独断と偏見と誤解しかない。
全ては自分が実際の自分を見ようとせず、嘘の自分を作り出し、現実離れしたセルフイッメージに執着していることから始まっている。
んじゃあどうして、現実離れしたセルフイッメージ、価値のある自分像にそうまでしてしがみつくのかというと、懲罰思想が根強いからだ。
自分の中にこういう人間は価値がないという基準があり、価値のない人間はどんなに苦しめても責めても粗末にしてもいいという冷たい思想がある。
誰かを責めたり、誰かを傷つけようとしている時、必ずその相手は自分の基準からして「価値のない人間」なり「悪人」なり「下の人間」なりというカテゴリーに属している。
このような分けて否定する習慣、懲罰思想が根深いと、自分が他人を「価値のない人間」なり「悪人」なり「下の人間」なりとみなすと激しく攻撃するために、自分が「価値のない人間」なり「悪人」なり「下の人間」なりとみなされると他人から攻撃されると思ってしまう、あるいは自分が自分を攻撃してしまうために、「価値のない人間」なり「悪人」なり「下の人間」なりとみなされることがすごく怖くなる。
その反動から必死に「価値のある人間」なり「善人」なり「上の人間」という印象と他人に与えようとする。いかに他人から価値ある人間としてみなされ、優越感を得るかということが人生の目的になる。そのための記号を人生の膨大な時間と労力とお金を注ぎ込む。
その根本には不安と恐怖と強迫観念がある。
だからテイカーもナルシストも苦しんでいる。
価値のある自分像に囚われ、虚像を自分自身であると段違いな勘違いをし、日々「価値のある自分像」を証明するためにネバギバの精神で頑張っている私たちも苦しんでいる。
そしてその不安と恐怖と強迫観念は、自分の懲罰思想という冷たい思想、分けて否定するという冷たい習慣、日頃の敵意や攻撃性からガチムチに生み出されている。
誰のせいでも社会のせいでもなく、自分に原因がある。
と書くと、「自分に原因がある」ということを「自分が悪い」と勘違いし(「自分に原因がある「ということと「自分が悪い」ということは全然違う)、自分が悪い→悪い人間は責めなければならない、と懲罰思想と分けて否定する習慣が自動的に働き、自分をガチムチに責めてしまうほどに懲罰思想と「分けて否定する習慣」が陰毛にまで染み付いてしまっている。
誰かを責める度合いが強ければ強いほど、誰かを見下す度合いが強ければ強いほど、優越感を得ようとすればするほど、自分は価値のある自分像に囚われてしがみついているということになる(誰かを否定し見下せば、自分は奴とは違って清く正しく善良な自分なんだ、価値のある人間なんだと感じることができるからな)。
よーし、今日も他人を見下して優越感を得るために仕事、勉強、運動、読書、投資、買い物、ポケモンカード、旅行を頑張るぞい★
まじでやべぇ。
声出して切り替えていこうと思う。