おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

世界は自分なりの解釈

そもそも人間は解釈という名のレンズを通して世界を見る。何らかの理由でそのレンズが歪んだり、傷つけられたとき、奇妙な世界が立ち現れてくるのです。それは陰謀論の形を取るかもしれないし、病的な妄想の形を取るかもしれない。いずれにせよ、その世界を見ている本人からすれば、それは現実そのものなんです。

森見登美彦『熱帯』

 

私たちは必ず自分のレンズを通して世界を見ている。

 

そのレンズの歪みや傷や色味は千差万別十人十色人それぞれなのだけれど、ブッダ級の人間でない限り、自分のレンズには何らかの欠陥を抱えているため、私たちが自分のレンズを通して物事をありのままに見ることは絶対にできない。

(私たちはすべからくみんな認知的に障害を抱えているようなものなのだ)

 

んじゃあ私たちは普段何を見ているのかというと、それは自分の解釈だ。

 

今見ているものの形や色も自分の解釈だし、人から受ける印象も自分の解釈に過ぎない。自分のレンズを通して見ている以上、自分が見ているものは全て自分の解釈でしかない。

 

見ているものは全て自分の解釈、と気がつくとすごく不思議な気持ちになる。

 

自分は自分の解釈の世界に住んでいて、他人は他人の解釈の世界に住んでいる。

だから一人ひとり住んでいる世界が全く異なるし、一人ひとりにとっての現実も全くことなる。

 

ある人に幽霊が見えて、ある人には見えなくても、それはどちらにとっても現実で、どちらかが正しいという次元の問題ではない。

 

両者の世界が完全に一致するということは決してあり得ない。

 

このことに気が付き、これを大前提にすると自分の正しさを証明すること、自分の正しさを他人に押し付けることがいかに傲慢な態度なのかということがわかる。

 

幽霊が見えることも、幽霊が見えないこともそれぞれの解釈の域を出ず、またそれぞれにとって現実であるのに、自分の方は正しく、相手の方は間違っていると断定しているからな。

 

幽霊だけでなく、私たちには全てが自分の解釈で、自分にはこう見える、あなたにはそう見える、これを確認し合うまでのことしか本来できないはずであーる。

 

それ以上に踏み込み、どうしてお前にはこう見えないんだ、と相手を責めたりしてしまうということは、おいどん/あちしは歪んだレンズ越しに物事を見ていない、きゃつは歪んだレンズで物事を見ている、つまり、おいどん/あちしは神か仏なんだ、と言っているようなもので自惚れが過ぎるということになる。

 

自分が見ている世界は全て自分の解釈。そしてその解釈の中で自分はてんやわんやし、阿鼻叫喚している。

 

苦しみを多く感じる人は、苦しみを生み出すような解釈をすることが多く、それ故に苦しい世界ができあがり、その中で生きることになる。

 

幸福を多く感じる人は、幸福を生み出すような解釈をすることが多く、それ故に幸福な世界ができあがり、その中で生きることになる。

 

自分は正しい、自分は物事を正しく見ているぽよ、という思い込み、前提に立っていたら自分のレンズの歪みに一生気がつくことはできず、苦しみを生み出し続けることになるかもしれない。

 

まずは自分は必ず歪んだレンズ越しに常に物事を見ていて、自分が捉えているものは自分なりの解釈でしかなく、間違っているかもしれないし、それとは違うあり方が楽勝であり得るかもしれないという前提に立つ必要がある。

 

その上で自分は物事をどのように見る傾向があるのか、自分はどのように物事を解釈する傾向があるのか、自分のレンズはどのような歪みや傷があるのかを知る必要がある。

 

自分の解釈はすでにもう目の前に展開されている。

 

すべては自分の解釈次第や。

不思議だ。

 

声出して切り替えていこうと思う。