自分についてだけではなく、眼の前にいる「他人」というものについても同様に、なにひとつ知っていないということが事実です。あの人は〇〇さんであり、性格はこのような人で、私は嫌いだ、などと「その人」を知っているように思っていますが、はたしてそうでしょうか。すでに繰り返し述べてきたように、私たち一人ひとりは、一人一宇宙であって、私の外に抜け出すことはできないのですから、私にとっての他人とは私の心の中の影像にしかすぎず、他人そのものを決して知ってはいないのです。憎い、嫌いというのは自分のほうから一方的に付与した思いにすぎないのです。
横山紘一『唯識の思想』
私の知人に社会が敵に見えている人(Aさん)がいる。
私たちは物事をありのままに捉えることはできず、私たちは必ず自分の心のフィルターを通して物事を捉えている。自分なりの解釈や捉え方や推測や偏見でもってして物事を捉えている。
自分が捉えているものは全て自分の解釈や捉え方や推測や偏見でしかない。
言い換えると、私たちは自分の解釈や捉え方や推測や偏見の中に生きている。
自分の解釈からは絶対に抜け出すことができない。
よって、同じ空間を共有しているように見えても、実際には一人ひとりは異なる世界の中にいる、それぞれ自分なりの物事の捉え方の中にいる、まさに一人一宇宙ということになる。
私たちが見ているものは自分なりの解釈でしかない。
あるものを見て、それを自分のフィルターを通して自分なりに再構築し、そうして再構築されたものをありのままのそのものだと思って捉えている。それは自分のなりの解釈でしかないのに、自分はありのままに物事を見ているんだと段違いな勘違いを起こしている。
(自分にはこう見えているのだけれど、他人にはどう見えているのかしらん、と思いを巡らせることなく、おれっちは絶対に正しいんだ、だからおれっちの世界の捉え方に間違いはないんだという段違いな勘違いをしている者同士が共同生活を営んでいるために、どちらが正しいのかどうかの論争が絶えない日々になってしまう。どちらもそれぞにとっては正しいし、どちらも物事をありのままに捉えられていないという意味で間違っている、ただそれだけだ)
同じものであっても、フィルターのかかり方や再構築方法が一人ひとり異なるため、他者と見ているものが同じということは絶対にない。
何を認知するにしても(たとえ自分のことを認知するにしても)、自分の心で自分なりの影像を生み出して、その影像を実際のものであると勘違いして捉えているに過ぎない。
自分のとっての世界というのは自分の中の影像にすぎない。
以上を踏まえて、社会が敵に見えているAさんについて考えてみる。
「社会」という言葉の時点ですごく漠然としているのだけれど、とにかくAさんはありとあらゆるものが敵に見えているのだろう。
んじゃあ、実際に社会がAさんを攻撃したり、何か良からぬことをAさんに対して企んでいるのかというと、その真実はわからない、そうかもしれないし、そうではないかもしれない、というのが実際だろう。
Aさんは、社会というそもそも漠然としたものを正確に捉えることはできないし(自称社会学者であってもそれは無理だろう)、Aさんのいう社会というのはAさんなり解釈であり、Aさんにとってはそう見えるものでしかなく、Aさんが自分に都合の良いように再構成した影像でしかない。
Aさんにはそう見える社会というのは実際には存在しない。
それはAさんにしか見えない。しかし、Aさんにはそうとしか見えないため、Aさんにとってそれは現実でもある。あくまでもAさんにとっては、だ。
だからAさんにとって、社会は敵、というのはある意味で真実なのだけれど、それは普遍的ではなく絶対ではない。物事の捉え方が類似している人の間では共有されやすいかもしれないが、一人一宇宙であるために万人と共有することは絶対にできない。
Aさんにとって社会が敵に見えてしまうのは仕方がないとして、ここで見逃してはならないことは、Aさんはその社会を攻撃してしまっているということだ。
敵=悪は攻撃するべきもの、敵=悪を攻撃し、苦しめ、傷つけ、踏みつけ、蹂躙することこそ正義、という私たちがガチのムチで陥ってしまっている自称善人の思考パッターン、いわゆる持ち前の懲罰思想に基づき、Aさんは社会という影像を攻撃してしまっている。
(それは目に見える言動として攻撃することもあるかもしれないし、外見はレディ・ガガ並みのポーカーフェイスで取り繕っているものの自分の内側では憎悪感情を煮えたぎらせているかもしれない。どちらも同じ行為であり、両者に優劣はない)
そしてここで気がつくべきことは、Aさんが捉えている社会というのはAさんが生み出した解釈、心の影像でしかないということだ。
Aさんは社会そのものを攻撃している気分、ムードになり、正義という名の下に社会を攻撃しているこんな私は正しい人間なんだ、と悦に浸っているかもしれないが、実際は自分の心を攻撃してる。
一時的には「あちしって悪い社会を良くしようとする正しくて善良な人間☆」と気持ち良くなれるかもしれないが、実際には自分を攻撃している、自己否定をしているが故に、最終的には苦しくなる。
その苦しみは、実際の社会(というものがあるのかわからないが)と自分の影像の区別ができておらず、自分の心の影像を実際の社会と勘違いして攻撃しているが故の苦しみであるにもかかわらず、その構造が理解できないために(そもそも自分は常に自分なりの解釈の中にいる、自分なりの物事の捉え方の中にいるということにも、そう簡単には気が付かない)、自分が今感じている苦しみはやはり社会のせいなのだと社会を悪として見、そうして持ち前の懲罰思想に基づき、自分なりの解釈でしかない社会、自分の心が生み出した影像でしかない社会を責め立て、一時的に悦に浸り、何かを責めることをやめると、それまで責めていた分だけ心は傷ついているため、再び苦しみがどっとやって来る、そしてまたその苦しみを社会のせいにし、責めることをやめると苦しくなるだけなので、延々と社会を責め続け、延々と自分の心を傷つけ続ける。
これを延々と繰り返している。この無限ループを地獄という。
地獄に新年も正月も関係なく、地獄の前では新年も正月もガチのムチで無力。
強いてできることは、正月セールで何かを買い漁るか、正月特番を見漁り、苦しみを誤魔化すくらいだろう。
Aさんに苦しくないかと聞くと、やはり苦しいと言っていた。
絶え間のない自己否定に陥っているのだから、そりゃあ苦しいじゃろう、となぜか爺さん風に思ってしまう。
自分はありのままに物事を捉えているわけではないということ、自分が捉えているものは自分の心で自分の都合に合わせて自分なりに再構成された影像でしかないということ、だからこそ、何かに対し攻撃的な思いを起こすということは自分の心に対し攻撃的な思いを起こすということで、それは自傷行為でしかなく、それは自己否定であるが故に苦しみしか生み出さないということ、これらを理解し、何か=自分を責めるということをやめていかなければ、Aさんが感じているような苦しみは絶対に減っていくことはない。
懲罰思想にガチのムチのマジで思考パッターンをハックされている私たちは、責めないようにしてもどうしても責めてしまうのだけれど、責めてしまったら、それはそれで仕方がなく(正しいわけでは決してない)、何かを責めてしまう自分を何かを責めてしまう自分として見て、そういう自分の悪の側面(何かを責めることは自分に苦しみをもたらすことであり、苦しみをもたらすものを仏教では悪とするため、理由を問わず何かを責めるということは悪ということになる)を受け入れて、自分の悪の側面を責めないことを心がけていくしかない。
ということをAさんに伝えたくても、実際の物事(というのが本当にあるのかどうかも自分なりの解釈でしか世界を捉えられない私にはわからないのだけれど)と自分なりの解釈が完全に一致しているとしか思えないAさんにとって、上記のことはあまりにも突拍子もなく聞こえてしまい、この声は届かないだろうとも思う。
それはそれで仕方がない。
Aさんをこちらから積極的に説得して是が非でもAさんをどうにかしようとも思わない。
AさんにはAさんなりの世界があり、Aさんが自分の世界をどうしていきたいかを決めるのはAさんの自由だからな。
自分が捉えている世界は自分の心が生み出した影像なのだから、何か=自分に冷たい思いを起こしたら自分が苦しむことになり、何か=自分に温かい思いを起こしたら歓びが生じることになる。
Aさんが苦しみの無限ループから抜け出せることを切に願う。