おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

失敗した時に実際の自分が見える

邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物あるいはすべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。同様に集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。

 

失敗はわれわれの誇りを傷つける。また、傷を負った動物はどう猛になる。健全な有機体組織においては、失敗は内省と自己批判をうながすものとなる。ところが、邪悪な人間は自己批判に耐えることができない。しがって、邪悪な人間がなんらかのかたちで攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

私たちは自分自身のことを実はよくわかっておらず、実際の自分とはかけ離れたものとして自分自身を認識している。

 

自分はこういう人間だというイッメージを持っている。

そして人からそのようなイッメージどおりに認識してもらいたいと思っている。

そしてそのイッメージを「誇り」なり「自信」なり「プライド」にしている。

 

例えば、ある人は自分は優秀な人間だというセルフイッメージを持っていて、他人から優秀な人間として見てもらえるように日々振る舞っている。そしてその優秀な人間像を自分の誇りにしている、あるいはしようとしている。

 

ある人は自分は真っ当な人間だというセルフイッメージを持っていて、他人から真っ当な人間として見てもらえるように日々振る舞っている。そしてその人間像を自分の誇りにしている、あるいはしようとしている。

 

ある人は自分は善良な人間だというセルフイッメージを持っていて、他人から善良な人間として見てもらえるように日々振る舞っている。そしてその善良な人間像を自分の誇りにしている、あるいはしようとしている。

 

それらのイッメージは基本的にきれいで完璧なセルフイッメージであり、ある種の理想的な自分像とも言える。

 

私たちはそうしたセルフイッメージに適合するモノやコトやヒトや言動を「好きなもの」「好ましいもの」とみなし、それらを自分のセルフイッメージを規定するためのある種の記号としてかき集めている(金、地位、名声、知識、実績、美貌、正義、コネクション、結婚、子供など)。

 

普段の日常において全てが自分の思いどおりになれば、私たちは自分のことを自分の理想像通りの人間として思い込み続けることができるのだけれど、現実というのは諸行無常であるために、失敗することも楽勝であるし、自分の思いどおりに物事が進まないことも楽勝であるし、他人から自分のことを理想像通りに見てもらえないことも楽勝である。

 

諸行無常の理によって、自分が自分だと思い込んでいるイッメージを突き崩された時に自分の邪悪性の度合いがわかる。

 

自分のことを優秀な人間だと思い込んでおり、他人からも優秀な人間だと思われるために日々優秀な人間として振る舞っていた人が、諸行無常の理によって、ある時、自分のミスにより何らかの損失を生じさせてしまった時、自分は決して純度100%の優秀な人間ではないという現実を突きつけられる。

 

そうなると自分のセルフイッメージが崩れる、人からもはや優秀な人間として見てもらえないのではないかと不安になる。

 

その時に、自分の不完全性=今の自分の現実を受け入れて、きれいで完璧だった従前のセルフイッメージを現実に合わせて書き換えることができるのか、あるいは是が非でもきれいで完璧なセルフイッメージに執着し、きれいで完璧なセルフイッメージの崩壊を防ごうと、他人を悪者にし他人を攻撃したり、都合の悪い事実を消し去ろうとしたり捻じ曲げたりし、あくまでも自分はきれいで完璧な人間なんだという立場を死守しようとするのか。

 

言い換えると、前者は「見たくない自分の側面=自分の悪の側面=理想の自分像とはかけ離れた実際の側面」に対して寛容であり、後者は同側面に対して非寛容ということになる。

 

人は諸行無常の理によって現実を突きつけられる、理想の自分像とは異なる実際の自分を見せつけられる、そして、理想の自分像と異なる実際の自分を受け入れきれない時に、あちしはそんな人間じゃないぽよ、あちしにはそんな悪の側面はないぽよ、あちしにはそんな価値のない側面はないぽよ(ここでいう「悪」や「価値のなさ」は自分の理想像を基準にしたものだ)、と自分自身を責めて苦しくなる。

 

というように、その苦しみは自分が理想の自分像に執着し(自分は理想どおりの人間なんだという盲目的な思い込み、あるいは理想通りの人間でなければいけないんだという強迫観念)、実際の自分を否定しているがゆえに生じているにも関わらず、この道理がわからないが故に、実際の自分の側面と向き合おうとせず、実際の自分の側面を見せつけてくる他人なり出来事なりに自分の苦しみの原因を求めては怒り狂い、それらを責め立て攻撃し抹殺しようとする。

 

自分が実際の自分を受け入れきれないが故に、理想の自分像を突き崩してくるような人や物や出来事に「悪」のレッテルを貼り、延々と何かや誰かを非難し、「悪」は他人であり自分ではないんだ、自分はきれいなままなんだ、と理想の自分像なるものを保とうとする。

 

あるいは自分が実際の自分を受け入れきれないが故に、延々と快楽に耽り、実際の自分を見ないように誤魔化し続ける。

 

誤魔化しのための怒り、誤魔化しのための快楽。

 

仏教で言うところの煩悩、怒りと貪欲。

 

何かにつけて怒り狂う人、延々と欲に流れ続けている人は、執着している理想の自分像を持っており、理想通りではない実際の自分が見え、理想通りではない実際の自分を受け入れきれずに苦しんでいる。

 

ということは、自分が怒ってしまった時(理由は関係ない)、あるいは惰性でダラダラと欲に流れることがやめられない時、自分は見たくない自分の側面を誤魔化そうとしているわけだ。

 

自分はどんな理想の自分像に執着し、どんな自分の側面を見ないように誰かを嫌い、何かを忌避し憎んでいるのか。

 

自分が捉えている世界は自分の解釈でしかなく、私たちは世界を通して自分の解釈を見ている。

 

ということは嫌いな人物、忌避しているものを通じて自分が見えている。

 

嫌いな人物、忌避しているものを通じて自分には何が見えるのか、どのような自分の側面が見えるのか。

 

こう考えると、日々の失敗や嫌いな人物、つまり理想の自分像を突き崩してくるものは全て実際の自分を知らせてくれ、受け入れる好機になるわけだ。

 

しかし、理想の自分像への執着が強いと、失敗や嫌いな人物との時間は自己否定による苦しみをもたらすだけの地獄でしかないわけだ。

 

嫌いな人や嫌いなものへの拒否感が、見たくない自分の側面への拒否感ということにもなるわけだ。

嫌いな人や嫌いなものへの憎悪が、見たくない自分の側面への憎悪ということになるわけだ。

 

いやー、まいったなー。

 

声出して切り替えていこうと思う。