おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

働いていないことに悩んでいた私の思考パッターン


私は大学卒業後、就職もせずに一時期ニートだった時代がある。

20代のうち合計4年くらいは働きもせずに暮らしたなー。

 

その頃の主だった心情を振り返ると気持ちは全然晴れていなかった。

 

今ではその理由がはっきりわかる。

 

それは私自身が、世間の価値観どおりに人間を働いている人間と働いていない人間に分け、働いている人間を価値がある人間と見なし、働いていない人間を価値がないと見なしていたものの、働いていない自分を価値がない存在だと思いたくないがために、働いている人間を奴隷であると馬鹿にし、見下すことによって、働いていないことをまるで善であるかのように正当化しようとしていたからだ。

 

端的に言うと、他人を否定することで自分は正しいんだと言い聞かせようとしていたからだ。

 

私は働いていない自分を肯定できず、働いている人を否定していた。

 

んじゃあ、人並みに働いていれば私の心は晴れていたのかというとそうは思わない。

 

当時の私にはどうしようもなく働きたくないという気持ちが厳然としてあり、気ままに国内外を放浪してみたいという強い思いがあった。

 

その状態で世間の風潮に合わせて我慢して働いていたら、自分をますます社会の奴隷であると感じ、自分が我慢して働いている分、働いていない人を見下し、強く責めるようになっていただろう。

 

おれはちゃんと働いているのに、なんであいつらは働いていないんだ、なんであいつらの分まで働かないといけないんだ、働いていないやつは無理矢理にでも働かせなければならない、働かないのであれば消えるべきだ、みたいな感じで。

 

実際に私は国内外をふらふらと放浪し、自分なりにやりたいことをやった。だけれど、働いている人間は価値があり、働いていない人間は価値がないという世の中の風潮からは抜け出せていなかった。つまり、私は、働いていない自分を価値がないものとして見なし、価値がいない自分を否定し苦しんでいた。そしてその苦しみを少しでも軽減して自分を守るために働いている人を見下し否定していた

 

心が晴れない原因は、働いているとか働いていないとかに関係なく、自分勝手に特定の価値基準を設け、それに沿って人を価値のあるものと価値のないものとに分け、価値のないものを否定する心の状態、苦しくなったら他人を否定して自分を正当化しようとする心の状態にあったのだ。

 

働いたら働いたで、働いていない人を否定する。

無職は無職で、働いている人を否定する。

 

他人を否定して、自分は善良な人間だと思い込もうとする。

他人を否定して、自分は正しい人間だと思い込もうとする。

他人を否定して、自分は価値のある人間なんだと思い込もうとする。

 

しかし、他人を否定すると苦しみが生み出されるだけだ。(そのメカニズムは仏教に詳しく教えられているがここでは割愛する)

それに、他人を否定しても善良な人間にはなれない。

他人を否定しても正しい人間にはなれない。

他人を否定しても価値のある人間にはなれない。

 

今現在、働いてないことに悩んでいる人は、かつての私のように「働いている人は価値があり、働いていない人は価値がない」という価値基準に縛られている。それは世間の風潮なのだからそれに抗うのは不可能に近い。そうして縛られた上で、働いていない自分をこんな人間はダメだ、存在していてはいけないとして、自分を責めたり、馬鹿にしたり、否定したりしてしまっている。

 

だがしかーし、別に働いていないからといって存在してはいけない理由にはならないし、傷つけたり、苦しめたりしてもいい理由には全くならない。

 

上記の価値基準に縛られ、働いていない人を責める場合、実際に働いている人は働きたくて働いているわけではなく、「働いていない人間=価値のない人間」になることを恐れて、働いていない人を否定しながら我慢して働いている、価値のない人間になるまいと強迫観念に突き動かされて働いている。

 

一方、働いていない人は働いていない自分のことを価値のない人間としてみなし、こんな自分はダメだと否定している、あるいは自分を守るために働いている人を否定している。

 

働いていようと働いていまいと関係ない。否定しているから苦しい。それだけだ。

 

実際は働いていてもいいし、働いていなくてもいい。

どっちも楽勝でOKで、どっちが正しいか間違っているかという議論は不毛だ。

どちらかの存在を否定する必要はない。否定しても何も変わらない。苦しみが生じるだけだ。

 

相手が自分であろうと他人であろうと、こういう人間はダメだと否定する心自体が苦しみを生む。否定する心があるかぎり苦しみは生み出され続ける。だからといって否定する心を消し去ろうとしてその心を否定すると、それはそれで苦しみを生む。こういう時は、おれは〇〇な人間を否定することによって自分で苦しみを生み出してしまっているなー、としみじみとその都度反省するに限る。

 

気分が晴れない時、それは何らかの基準に基づき、その基準に満たないものを、「〇〇な人間はダメだ」と自分や他人を否定してしまっている。その基準は何か?それは人の存在価値を測れる妥当な基準なのか?否定することでどういう自分を確認しようとしているのか?否定することでどういう自分をアッピールしようとしているのか?否定することで自分にどういうメリットがあるのか?

 

なんかまとまらなくなってきた。

 

とにかく言いたいのは、「働いていない人は価値がない」とみなす世間の風潮は未だに強いかもしれないが、私は働いていない人を肯定したいということだ。働いていないからといって決してダメではないので、自分を否定することはやめて欲しいということだ。だからといって働いている人を否定することもやめたほうがいい。自分を肯定するために全力で他人を否定するとニーチェのように壊れてしまうぽよ。

 

否定から離れること。否定している自分に気づくこと。否定している自分を否定せずに、否定するところがある自分だなー、と肯定的に受け入れていくこと。

 

こんなもんだな。

以上です。