親として幼い子の子育てをしていると、子どもが何をしても天才に見えてきます。「3歳でお手伝いができる」「3歳で電話がかけられる」「3歳でひとりでトイレに行ける」「3歳で童謡の歌詞が憶えられる」など、なんでも「うちの子は天才である」という主張の根拠になるわけです。
これは事実となる根拠から主張が生まれてきたわけではありません。「うちの子は天才である」という主張がさきにあって、周囲の現象を自分の都合のよいように、いわば牽強付会に解釈した結果です。
石黒圭『この1冊できちんと書ける!論文・レポートの基本』
私たちは物事を必ず自分のフィルターを通して見ている、認知している。
それは言い換えれば、私たちは物事を常に自分の思い込みで見ているということだ。
そしてそれは思い込みだからこそ、その見え方には必ず歪みや濁りが入る。
私たちはこのことに気が付かないまま、自分の思い込みを間違いないものとして断定して日々を過ごしている。
赤い色眼鏡をかけると、何を見ても赤色に見え、世界は赤色なんだ思い込み、ほらこれも赤色、これも赤色、あれも赤色、といった具合に、自分の見え方を証明するようなことばかりが目につくようになる。
自分の思い込みに都合がいいように物事が見えてくる。
これが歪みだ。
根本的に思い込んでいること、例えば「私は誰にも認められていない」という思い込みがあるとすると、何事においても「私は誰にも認められていない」という解釈をするようになる。
ほら、あの人があんな態度をとるのはわたしのことを認めていないからなんだ。
やっぱり私は認められていないぽよ。
私のことを認めてくれていれば、こんな風にはならないんだ。
やっぱり私は認められていないぽよ。
みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で、自分の子どもを天才だと思い込んでいるからこそ、子どもの一挙手一投足が天才のそれに見えてくるように、「私は誰にも認められていない」と思い込んでいるからこそ、他人の一挙手一投足が「私のことを認めてくれない言動」に見えてくる。
このようにおいどんたちは、自分の思い込みという色で世界を勝手に染めあげ、そのようにして染めあげられた世界の中で、自分の思い込みにとって都合のいい解釈をしながら一喜一憂しては阿鼻叫喚している。
ある人は、否定される世界にいる。
私は否定される人間だ、という思い込みの中にいて、何かにつけて、自分が否定されているように感じてしまう。
ある人は、馬鹿にされる世界にいる。
私は馬鹿にされる人間だ、という思い込みの中にいて、何かにつけて、自分が馬鹿にされているように感じてしまう。
ある人は、責められる世界にいる。
私は責められる人間だ、という思い込みの中にいて、何かにつけて、自分が責められているように感じてしまう。
ある人は、見下される世界にいる。
私は見下される人間だ、という思い込みの中にいて、何かにつけて、自分が見下されているように感じてしまう。
ある人は、認められない世界にいる。
私は認められない人間だ、という思い込みの中にいて、何かにつけて、自分は認められていないように感じてしまう。
そのような世界にいると苦しいので、人から否定されないように、馬鹿にされないように、責められないように、見下されないように、認められるように、世間的に価値があるとされているものをかき集めて、自分は価値のある人間だということをアッピールしようとネバギバの精神で頑張る。
しかし、例えば、どんなにお金をかき集めて自分は価値のある人間だということをアッピールしても、自分の思い込みは変わらない。
「認められない世界」という自分がいる世界は変わらない。
だからどんなにお金をかき集めても依然として、自分は認められていないように感じてしまう。
だからもっとお金をかき集めて、もっと自分は価値のある人間だということをアッピールすれば認められる、という発想になる、まだまだお金が足りないぽよ、という発想になる。
そうしてさらにネバギバの精神で頑張る。
際限のない苦しみの連鎖だ。
自分がいる世界、自分の思い込み、自分のフィルターが苦しみ色であるために、物事が苦しみ色に見えて、苦しみの連鎖にはまり込んでいるのだから、自分の世界、自分の思い込み、自分のフィルターの苦しみ色を薄くし、願わくば、いい感じの色に切り替えていけばいい。
んじゃあどうするのか。
それを知るには、そもそもどのようにして、自分の世界、自分の思い込み、自分のフィルターが形成されるのかを理解する必要がある。
自分が他人を否定するから、否定される世界ができる。
自分が他人を馬鹿にするから、馬鹿にされる世界ができる。
自分が他人を責めるから、責められる世界ができる。
自分が他人を見下すから、見下される世界ができる。
自分が他人を認めないから、認められない世界ができる。
ものすごくシンプルだ。
自分が世界に対して冷淡な思いを起こしたり、言動を行っているからこそ、自分の世界が冷淡なものになってく。
そしてその冷淡な世界から抜け出そうとして、価値のあるものをかき集めて価値のある人間であることをアッピールすることに必死になる。
世間的に価値のあるものというのは限りがあるので、当然そこには競争が生じる。
どちらが勝者か、どちらが上か、どちらが認められるか、どちらが得か、ということばかりを問題にするようになる。
そうして世間的に価値のあるものをかき集めることができた人を勝ち組と呼び、世間的に価値のあるものをかき集めることのできなかった人のことを負け組と呼ぶ。
しかし、勝ち組だろうが負け組だろうが、個々人がいる世界は冷淡な世界のままだ。
だから、自称勝ち組になったとしても恐怖や不安や強迫観念はなくならない。
そして、世間的に価値のあるものというのは諸行無常の理によって必ず変動するし、必ず失われるし、必ず自分の手元を離れていく。
どんなに自称勝ち組であっても心血を注いでかき集めたものは消え去っていくのだから最終的な自称負け組になり、これまでの苦労は何だったんだという徒労感と、かき集めてもかき集めなくても最終的には何も変わらないじゃないかという虚無感と、何もないこんな自分には価値はないという自己嫌悪と、こんな価値のない自分はいないほうがいいという自己否定により苦しみことになる。
以上の苦しみは自分が日々息をするように冷淡な思いを起こしていることが原因なのだから、寛容な思いを起こせるようになっていけば、自分の世界、自分の思い込み、自分のフィルターは変わってくる。
自分が他人を肯定すれば、肯定される世界ができる。
自分が他人を尊重すれば、尊重される世界ができる。
自分が他人を許せば、許される世界ができる。
自分が他人を認めれば、認められる世界ができる。
自分が他人に寛容になれば、寛容な世界ができる。
そして、よーし、寛容になったるどー、とどんなに意気込んでも、私たちはそう簡単に人に寛容にはなれない。
自分にとって都合の悪い人間は、悪なのだから消え去るべきだ、苦しむべきだ、罰せられるべきだ、という発想ががっつりと染み付いているためにどうしても冷淡な思いを起こしてしまう。
そういう時には、自分の冷淡な思いを正当化することなく、冷淡な思いを起こしてしまう自分を冷淡な思いを起こしてしまう自分として受け入れていく。
あんなやつに冷淡な思いを起こすのは正しいことなんだと正当化することもなく、冷淡な思いをおこす自分なんて醜悪で価値がないじゃんけと自己嫌悪や自己否定に陥ることもなく、ただただ自分の冷淡な部分を寛容に受け入れていく。
どんな他人に対しても、どんな自分に対しても、いかに寛容になれるか。
(いかに他人や自分を都合よく正当化できるかでは決してない)
なるほど。
声出して切り替えていこう。