おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

鬼と鬱

(日常生活を送れないツレは打ちひしがれていた)

自分はきっとこのゴミより価値のない人間なんだ

 

ひるまからねるなんてできないよー

世間様に申しわけないよー

 

なんか世間に追いつめられてる気がする

オマエは役立たずって・・・・・・

 

こんな40歳じゃヒトサマにあわせる顔がない

特に両親には申しわけなくて二度と会えないよ

細川貂々ツレがうつになりまして

 

鬱というのは誰もがなりえる状態らしい。

 

それはそのはずで、鬱と診断された人とそうでない人の思考パッターンはさほど変わりがないからだ。

 

鬱の人は、例えば以下のように思っている。

 

〇〇ができない人間は価値がない、存在していてはいけない。

〇〇を持っていない人間は価値がない、存在していてはいけない。

 

例えば、上の本に出てくる「ツレ」さんは日常生活を送れない人間をダメな人間だとみなし、昼間から昼寝をする人間をダメな人間だとみなしている。

 

「ツレ」さんには理想像なるものがあり、それは家をもっている、バリバリ仕事をしている、役職についている、2人ほど子どもがいる、自立した妻がいる、といったものなのだけれど、それは裏を返せば、家を持っていない人は価値がない、バリバリ仕事をしてない人間は価値がない、子どもがいない人間は価値がない、自立した妻と結婚していない人間は価値がない、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の価値観、条件付け、基準設定、思考パッターンだ。

 

上記の条件に照らし合わせて誰かが「ツレ」さんの存在価値を判断したり断定したわけではない。

 

それは本人自身が勝手に人を価値のある人間と価値のない人間に分けたり、存在してもいい人間と存在してはいけない人間に分けたりして、自分で自分のことを責めたり攻撃したりしているに過ぎない。

 

誰も「お前は役立たずだ」と言ってもいないのに、そのような声が聞こえてくるという。

 

それは何よりも自分自身が、人を役に立つ人間と役に立たない人間に分け、役に立つ人間は価値があり存在してもよく、役に立たない人間は存在していてはいけない、と思っているからこそ聞こえてくる自分の内なる鬼の声に他ならない。

 

その声は常に自分や他人に対して発され続けている。

 

自分の中の鬼はある基準や条件を設け、その基準や条件を満たさなければ、その人のことを存在価値はないとして攻撃したり、責めたり、馬鹿にしたりする。

 

この鬼が設けている基準や条件をクリアし、攻撃されたり、責められたり、馬鹿にされないために、つまりそのような恐怖や不安から逃れるために、私たちは鬼が掲げる「価値のある自分」という理想像に向かってネバギバの精神で頑張っている。

 

(自分の中の鬼というのは「価値のある自分」と今の自分を比較して、あんなこともできていないお前には価値がない、こんなところがあるお前には価値がない、あれを持っていないお前には価値がない、こんなものしかを持っていないお前には価値がない、だから「価値のある人間」にならないといけないんだぜ、このゴミ野郎、とムチを振るってくる存在なのであーる)

 

自分の中の鬼による恐怖や不安をモチベーションに、鬼が掲げる「価値のある自分」という理想像に向かって頑張るという方向性は、鬱と診断された人もそうでない人も基本的には同じで、鬱と診断された人はその方向性で頑張ることに限界を迎え、鬼から逃げられなくなり、鬼に捕まってフルボッコにされているだけで、そうでない人はまだまだ鬼から逃げ続けることができているだけにすぎない。

 

今はまだ鬼から逃げることができている人も、諸行無常の理によって必ず鬼に捕まり、鬼からフルボッコにされることになる。

 

働いていない人間を価値がない人間、存在してはいけない人間、というように否定する鬼がいたとして、今は働いている自分は大丈夫だぜベイビー、と安心していても、諸行無常の理によって、不慮の事故や災害や倒産や老いや病気や死によって必ず無職状態になる。

 

そうなると、働いていない人を否定する鬼が自分を価値のない人間だと責め立て、必ず苦しむことになる。

 

ここで重要なのは、無職にならないように、価値のない人間にならないように、不慮の事故や災害や倒産や病気や死をどう避けるかではなく(それはそれで大事なのだけれど)、価値の有無を問題にして、価値のない人間を否定する鬼、つまり自分の思考パッターンなり価値観なり努力の方向性なりを変えていくことだ。

 

価値の有無を問題にして、価値のない人間を否定する思考の癖から、価値があろうとなかろうと、人の存在を否定しない思考へと切り替えていくことだ。

 

鬼というのはある基準や条件を設けて、それらを満たさない存在を否定する。

そしてその鬼は自分自身に他ならない。

私たちは日々鬼となって、自分が勝手に設けた基準や条件で、他人や自分自身を見定め、それらの基準や条件を満たしていない他人や自分自身を(少なくとも心の中で)否定している。

そしてその鬼に否定されないように、日々、ビクつきながら不安と恐怖と強迫観念をモチベーションにネバギバの精神で頑張っている。

 

心の中に鬼がいないのは仏や菩薩くらいで、それ以外の人間凡夫の心の中には必ず大小様々な鬼がいる。

 

鬼はこれまでの自分の思考の癖のようなものなので、一朝一夕で消し去ることはできないけれど、少なくとも、自分の中に鬼がいて、その鬼が不安や恐怖や強迫観念を生み出していて、そしてその鬼というのは他人ではなく何よりも自分自身であるということに気がつくだけで十分だ。

 

気がつくことによって不安や恐怖や強迫観念の原因を他人に求めることがなくなり、その分だけ状況が悪化することを防ぐことができる。

 

最悪なのは自分は清廉潔白な人間でやんす、自分の中に鬼などいるはずがないでやんす、と自分の中の鬼の仕業である苦しみを他人のせいにして他人を責め立て、他人を傷つけたり他人との信頼関係を壊したりしてしまうことだ(他人を傷つけようとすることで自分も傷ついてしまう)。

 

自分の中の鬼に気がついたら、その鬼を否定してもいけない。

 

鬼を否定して消し去ろうとすること、それはそれで、鬼の有無を問題にし、鬼のいる人間は価値がない、価値がない人間は存在価値がない、だから否定したり攻撃したり傷つけたりしてもいい、という思考パッターンに飲み込まれていて、それは新たな鬼を作り出しているにすぎない。

 

鬼に気づいたら、気づくだけにとどめておく。

 

これが自分の鬼かー、こんな思考の癖あんのかー、こんな基準設けて否定してんのかー、こんな感じで自分や他人のことを否定してんのかー、このせいで苦しんでいるのかー、ほーん、なるほどなー。

 

鬼は常に自分の中にいるので仲良くしていくに越したことはない(仲良くするということは、決して鬼の所業を助長するというわけではなく、鬼の存在を否定せずに厳然たる自分の一部として受け入れるということだ)。

そして仲良くしていく内に柔和な鬼に変わっていくのではないかと思う。

 

鬼が自分の中でええじゃないかええじゃないかと米騒動ばりに暴れまわってる限り、鬼の思考パッターンを持っている限り、鬱の可能性からは無縁ではいられないだろう。

 

声出して切り替えていこうと思う。