真に革命的な革命は、外の世界ではなく、人間の魂と肉体の内側で起こる。革命の時代に生きたサド侯爵は、ごく自然に同時代の革命理論を使って、自身の特異な狂気を正当化した。
私たちは自分の外の世界を一変させれば全ての問題は解決し、自分は幸福になると思ってしまうのだけれど、外の世界でどんなに革命的なことが起こったとしてもそれは一時的な非日常にしか過ぎず、いずれはその変化に慣れ、再び苦しみが沸き起こってくることになる。
サド侯爵というのはサディズムの由来となった人なのだけれど、詳細はわからないが、同公爵は自分の中に特異な狂気があり、その狂気をもってしていわゆる背徳的な小説を書きまくったという(読んでみたい)。
物差しは何でもいいのだけれど、とりあえずここでは漠然と世間一般的な常識というものを物差しとするが、世間一般的な常識からして、私たち一人ひとりの中には狂気的な部分、醜い部分、邪悪な部分、背徳的な部分、冷酷な部分、幼稚なところ、未成熟な部分が必ずある。
全くないでやんす、あちしは完全にまっさらで清廉潔白な聖人クラスの人間でやんすという人は、おそらく劇団四季並みの演技力で自分に嘘を付くことに慣れてしまい、自分のことが全く見えていない可能性がある。
「サド侯爵は自分の特異な狂気を正当化した」とあり、これを革命と呼んでいるが、ここには「正当化して、正しいものとみなされたものしか存在してはいけない」という思考パッターンがあるような気がする。
「正しい」ものは存在してよく、「正しくないもの」は存在してはいけないという思考パッターン。
これは我々がよくやる普通の思考パッターンで、その大きな枠組の中で何が正しくて、何が正しくないのかの定義付けが入れ替わったことを革命と呼んでいる。
このように革命と言えども大きな枠組みは変わっていないが故に、世間の常識からして狂っているものを正当化するために細々とした論理が必要になってくる。
間違っているものは否定される(こんな側面がある自分はダメな人間だぽよと自己否定してしまい苦しくなる)ため、否定されないようにどうにかして「正しいもの」へ転換しようとしてしまう、つまり正当化しようとしてしまう。
しかし、それが正しかろうと間違っていようと、正気であろうと狂気であろうと、そのような思いや感情は厳然と自分の中に存在していて、確かにあって、実際にわき起こってくるのだから、あるものはあるものとして、ただただ自分の中にこういうものがあるなー、と認める、受け入れるだけで十分で、わざわざ新たなレッテルを考え出したり、論理をこねくり回してレッテルのすげ替えを行ったりする必要はない(「正しい」「間違い」「正気」「狂気」という価値判断は、世間的な常識や自分なりの常識を基準にして、自分たちの都合のいいように世間や自分が生み出した幻想でしかない)。
狂気を正当化し、受け入れるということは、それまで正常であったもの狂気として否定することにある。
正しいものの存在は肯定し、間違っているものの存在は否定する。
正しいものと間違っているものが変わるだけで、一方の存在を肯定し、一方の存在を否定すること自体は変わらない。
逐一正当化するのではなく、自分の狂気や負の側面を否定することやめ、それらを受け入れて、理解しようとする。
正当化することなく、開き直ることなく、狂気的な部分は狂気的な部分として受け入れていく、負の側面は負の側面として受け入れいく。
そうすると自分の中に正常な側面も存在を許され異常な部分も存在を許され、正の側面も存在を許され負の側面も存在を許される。
自分の中の正しい側面しか許さないという思考パッターン(正当化して正しいものにしなければ何ものをも受け入れることができないという思考パッターン)からどんな側面であってもありのままに全てを受け入れるという思考パッターンへの切り替えこそがより革命的なのではないかしらん。
声出して切り替えていこうと思う。