確証バイアスとは、自分の都合のいい情報ばかり集めて、自分にとって都合の悪い情報は無視する傾向のことです。人間は見たい世界しか見ないのです。
安達裕哉『頭のいい人が話す前に考えていること』
このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』
自分にとって都合の悪い情報や現実から私たちは目を逸らそうとする傾向がある。
それが自分にとって都合の悪い情報だったらそれを見ないようにするために、自分にとって都合の良い情報ばかりを集める。あるいは、自分にとって都合の悪い情報の発信者を排除しようとする。
あるいはそれが自分にとって都合の悪い現実だったら、過去のいい思い出に逃げて、目の前の現実から目を逸らそうとする。
その現実を現実として受け止めようとしない。
自分にとって都合のいいものばかりを見ていたい。
自分にとって都合の悪いものは見たくない。
むしろ、自分にとって都合の悪いものはなきものにしたい。
自分にとって都合の悪いものはなきものにしていく、そうすれば自分は良くなる、世界は良くなる、これがいわゆる正義の思考パッターンだろう。
この正義の思考パッターンは身の回りに溢れている。
ニュースを見れば悪とみなされた人がこれ見よがしに叩かれているし、叩いている人もそれが正義であるかのように容赦なく攻撃している。
正義のヒーローが悪をフルボッコにする、という少年漫画もこの構図が採用されているのがほとんどではないかしらん(そしてこの悪役というのも、自分にとって都合の悪い存在をなきものにしようとしている)。
スターリンやヒトラーやポルポトや毛沢東や旧日本軍の思想も根本的には実は同じ思考パッターンだ。
彼らは自分に都合の悪いものは徹底的に排斥しようとしたわけだけれど、そういう彼らを悪とみなしている私たちにも彼らと同じ正義の思考パッターンが実はガチガチにあり、日常的に、この人がいなくなれば、あの人がいなくなれば、と心の中で思い描いては自分にとっての悪を消し去ろうとしている。
(ただ私たちにはそれを実行できる権力や地位がないに過ぎない)
そして、自分にとって都合の悪いものをなきものにしようとするこの思考パッターンは自分自身に苦しみをもたらしてしまう。
だから一刻も早くこの思考パッターンからは抜け出したほうがいい。
(まぁそう簡単にはいかないのだけれど)
自分にとって都合の悪いものに直面した時、私たちはその都合の悪いものそのものが自分に苦しみをもたらしたと段違いな勘違いをし、その都合の悪いものを消し去れば自分は苦しまずに済むと思ってしまうが、実はそうではない。
自分にとって都合の悪いものに直面した時、私たちには自分にとって都合の悪い自分が見える。
見たくない自分が見える。
そしてその見たくない自分を自分が受け入れきれておらず、なおかつ、都合の悪い自分を自分自身が攻撃しているから苦しむことになる。
逆に、都合の悪い自分が見えた時に、その自分を攻撃しなければ苦しまない。
自分のことを「正しい人間である」と信じ込んでいる人、Aがいるとする。
Aは正しさに執着している分、間違うことに否定的だ。
人間の中には必ず、間違ってしまう側面があるのだけれど、Aは自分の間違ってしまう側面を日々見ないようにし、時には自分はそんな人間ではないと自分を自分で否定しながら、常に「正しい人間」というところに立って生活している。
そんなAの目の前に、Aの間違いを正確に指摘するBが現れたとする。
この時、Bの指摘によってAには「間違ってしまう自分」というものが見える、あるいは感じる。
しかし、Aは正しさに執着しているので、間違ってしまう自分、都合の悪い自分を受け入れられない。
むしろ、そういう自分の側面を攻撃し否定する。
そしてそれが苦しみを生む。
しかし、Aにはこの構図がわからないので、この苦しみはB、つまり自分とって都合の悪い存在によってもたらされたと思い込んでしまう。
そして、Bを攻撃したり、否定したり、呪詛したりする。
自分にとって都合の悪い存在をなきものにしようとする。
つまり、自分にとって都合の悪い存在というのは、都合の悪い自分の側面を見せつけてくる存在のことであり、自分自身が都合の悪い自分を受け入れきれていないが故に、自己否定してしまい、その結果、苦しみがもたらされる。
自分の中には自分にとって都合の悪い側面というのが必ずあるものなので、都合の悪いものを拒否し、見ないようにし、否定し続ける限り、必ず自己否定が生じ、結果、苦しみが生じることになる。
逆に、都合の悪い側面も自分の一部であると受け入れきれていれば、自己否定することがないため、苦しみは生じない。
自分が苦手な人、彼らといる時に苦しみを感じた場合、そこには自分が見たくない自分が見えているということになる。
彼らは常に自分にとって都合の悪い自分の側面を見せてくれていると考えることもできる。
それを好機と捉え、そこに見えているものは何なのか、彼らのどのような部分が苦手なのか、果たして自分にはそのような側面は絶対にないのか、と考えていくと、自分にもそのような側面があるということに気が付く。
苦手な相手を受け入れていくということは、都合の悪い自分を受け入れていくということになる。
そうすると苦しみが減る。
だから目の前の現実、つまり都合の悪い自分から目を逸らすと、苦しみは減らないばかりかむしろ増えていく。
自分が自分自身に寛容になるために、目の前の現実は受け入れていったほうがいいということか。
声出して切り替えていこうと思う。