おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

暇になる習慣

最近、休日が暇だ。

 

休日にやることは家事、運動、読書、ブログくらいで、残りの時間は昼寝をしたりぼさっとしている。

 

買い物も食料品と日用品を買うくらいで、特に欲しいものもない。

 

以前は一人旅や買い物もよくしていたのだけれど、30代に入って一気にその頻度が激減した。

 

一気に削ぎ落ちた感がある。

 

行ったところのないところに行く、会ったことのない人と出会う、持っていないものを買う、つまり非日常を味わうということ、これはこれで楽しいかもしれないのだけれど、結局自分が人生の大半を過ごすのは日常、つまり、よくいるところ、よく行くところであり、よく会う人、よく一緒に時間を過ごす人であり、すでに持っているものであり、日常的によく使っているもので、そういった日常にフォーカスし日常を整えていくと、非日常にあまり価値を見い出せなくなってくる。

 

どんなに非日常を味わっても日常には必ず戻ってくるし、非日常を繰り返しているとそれは必ず日常となる。結局は日常だ。

 

このような心境になっていったのは間違いなく「使っていないものを捨てる」という習慣だ。

 

使っていないものを捨てていくと、普段使っているものだけが残る。

そうして残ったものが自分の日常ということになる。

 

普段使っているのだから、それがないと普段やっていることができなくなり、日常に決定的な支障が出る。

 

よってそれらは市場価値とは関係なく、自分にとって価値のあるものということになる。

 

逆に、どんなに市場価値はあっても、普段使っていないのであれば、それらがなくても自分の日常には何の支障もないのだから自分にとっては価値がないということになる。

 

使っていないものを捨てていくと、そういうことがわかるようになってくる。

 

自分にとって何が価値があり、何が価値がないのか。

 

自分は何を使うことができ、何を使うことができないのか。

どれくらいの量を使うことができ、どれくらいの量を使うことができないのか。

 

歯ブラシ1本は使うことができ、それがなければ普段やっている歯磨きができなくなるからこそ、それは自分にとって価値がある。しかし、それが100本となると話は別で、1本は問題ないとしても、残りの99本は日常的に使いこなせない、その99本がなくても自分が普段やっている歯磨きには何の支障もないので、市場価値はあるかもしれないが、自分にとっての価値はない。

 

使っていないものを捨てていくと、自分が使わないもの、使えそうにないものに価値を見い出せなくなってくる。

 

使っていないものを捨てていく過程で、いかに自分が普段使っていないにも関わらずいざ捨てようとするそれらに執着しているか、いかに自分が自分のことを「価値のある人間」として定義しようとし、いかに人から「価値のある人間」として見られようとして実際に使わないものをかき集めてきたのかもわかる。

 

そうして使っていないものを捨てて、使わないものを手に入れようとしなくなると、当然自分が普段使っているものだけが残るようになる。

 

そうして残ったものの量は実に少なく、しかもその一つひとつが案外ボロボロだったりする。

 

それは、たまの旅行や外食といった非日常には膨大な時間と労力とお金を注ぎ込むが、普段自分が使うもの、自分にとって一番身近で一番価値あるものには時間と労力とお金を惜しみ、気にかけていないことの証左でもある。非日常を重要視して、日常を蔑ろにしていることの証左でもある。

 

私の祖母も1回も着たところを見たことのない着物には数十万という大金を注ぎ込み、普段祖母が家で着ていたTシャーツは私や妹がヴァイト代で買った安いTシャーツのお下がりを着ていた。当然、そのTシャーツはよれよれでやんす。

 

というように、使っていないものを捨てていくと、自分が日常を粗末にしていることがわかる。自分の根本であり基礎であり中核である日常をいかに粗末にしているのかがわかる。

 

それを反省しネバギバの精神で、日常を大事にしていく、つまりよく使うもの、よく行く場所、よくいる場所、よく会う人との人間関係、よく時間を過ごす人との人間関係を整えて大事にしていくことに注力していくと、当然、日常が安定してくる。

 

そうするとどうだろう、日常が主軸となり日常が安定しているが故に、非日常がさほど重要ではなくなってくる。

 

(非日常を渇望し重要視するのは日常が苦しくて、その苦しみを誤魔化したりかき消したいからだ。)

 

非日常は本当にたまにでよくなるし、たまの非日常も途中で疲れて日常に戻りたくなってくる。

 

その結果、暇だ。

 

以前は無限に欲しいものがあったのに、今では自分が使わないものを手に入れることがいかに無駄なことかがわかっているので特に何かが欲しいとは思わない。日常的に使って消耗していくものを補充したり、買い替えたりするだけだ。

 

(ものを使うには時間と労力が必要で、私たちの時間と労力には限界があるので、私たちが使えるものの量も自然と限られてくる。自分の時間と労力の量を超えて持ち物を持つということは、その分使わないものが増えるということで、それはつまり価値のないもの、無駄なものを増やすということになる)

 

行ったことのないところに行き、見たことのないものを見て一時的に楽しんでも、それは最終的に日常に飲み込まれて夢幻のようになる。

 

この虚無感。

 

これは悲観的な虚無感ではなく、心地のいい虚無感で、頭の中が余計なものでいっぱいになるようなことがないのでどことない余裕みたいな感じのニュアンス雰囲気っぽいものをもたらしてくれる。今はうまく説明ができない。

 

休日の暇は「余裕」として捉え、余裕を余裕として大事にしていこう。