おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

余裕がなくなる日常

先日、職場のAさんが私にお土産を持ってきてくれた。久しぶりに実家に帰り、1週間ほどゆっくり過ごしてきたという。

 

その際にAさんは、今のような働き方でいいのかしらん、と考えてしまったらしい。今の働き方のきつさに改めて気付かされたらしい。

 

Aさんは勤続30年で、実務に強迫的に追われまくり残業三昧の日々を過ごしてきたし、今でも過ごしている。

 

(別に結婚しているわけでもないし、もう30年も働いているのだからある程度の貯蓄もあるだろうと思ったので)そんなにあくせく働く必要はないのではないかしらん、ダウンシフトしてもいいのではないかしらん、みたいなことをいうと、実際のところ蓄えはあまりなく、自分の唯一の楽しみである観劇にはそれなりのお金がかかる、仕事を探してみたけれど、今の月々の出費を賄える仕事は今の仕事しか私にはもうないぽよ、つらいぽよ、ということであった。

 

このようにいつまで経っても余裕のない状態にある人は以下のような特徴がある。

 

  • 使っていないものを手放さない
  • 使わないものをかき集め続ける
  • 持ち物は多いに越したことがないと思っている

 

実際にAさんの日常はこんな感じだ(本人から直接聞いた)。

  • 足の踏み場がないほどに使わないもの(読んでいない本、着ていない洋服、身に付けないアクセサリー、見ていないDVD、触れも見もしない小物、食べきれないお菓子、使う当てのない複数冊の手帳)で部屋が溢れている。使わないものがぎっしり入ったダンボールが山積みになっている
  • 職場の机の周りは使わない書類やファイルが山積みとなっている
  • 使いもしない予備のスマホを契約している、使いもしない固定電話を契約している
  • 使いもしないヤフーの有料会員料金何十年も払い続けている
  • 壊れて使えない炊飯器をそのままにしている

 

それでもAさんは「自分は正しい」という前提で「欲しい」、「必要かもしれない」という理由でものを買い続け、実際には使わないものを溜め込み続ける。自分の思い込みと現実に乖離があるのにそれに気が付かない。現実の方に自分の思い込みを合わせようとするのではなく、現実を見ようとせずに自分の正しさに執着している。

 

自分が使いきれていないということは、自分で管理できる量を超えているということだし、使っていないということは持っていないことと同じだし、使うことができないという意味においてはゴミも同然なのだから、「きちんと使えないが故に自分のものにはなり得ないもの」、「時間や労力を割くことができずに使うことができないゴミ同然のもの」に時間とお金と労力を使うということは、時間とお金と労力を虚空に投げ捨てているようなものなのだけれど、やっぱりゴミのような時間とお金と労力の使い方ってしちゃうよね。

 

これはAさんだけの問題ではなく、私も自分事として真剣に善処していく必要のある問題で、余裕の有無というのは日々の習慣によって生み出されるという前提に立つと、Aさんの習慣を真似するわけにはいかない。私は日々、ましてや30年経ってもなお、あくせくと働かざるを得ない状態になりたくないし(働くこと自体を否定しているわけではない)、どうせなら余裕をもってゆったりと過ごしたい(楽をして他人を見下したいわけではない)。

 

Aさんの余裕を失わせているもう一つの要因として「観劇」というものがある。Aさんは観劇している間は自分を忘れられるからやめられないという。

 

自分を忘れるためのもの、自分を見ないようにするためのもの、自分をごまかすためのもの、そのようなものがAさんにとっては「観劇」だっただけで、ある人にとってそれは酒かも知れないし、ギャンブルかも知れないし、恋愛かもしれないし、筋トレかもしれないし、映画かもしれないし、読書かもしれないし、風俗かもしれないし、旅行かもしれないし、買い物かもしれない、グルメかもしれない、SNSかもしれない、ブログかもしれない、ビジネスかもしれない、ブランド品かもしれない。

 

私たちは自分勝手に基準を設けて、その基準に照らし合わせて、あるものを価値があるとみては肯定し、あるものを価値がないとみては否定しながら生きているけれど、自分が価値がないとして否定しているものが自分の中にもあってそれを自分の厳然たる一部分であると受け入れきれずに自分のその部分をなきものにしようとする、忘れようとする、見ないように誤魔化そうとする。

 

自分を忘れるためのもの、自分を見ないようにするためのもの、自分を誤魔化すためのもの、向き合うべきものを先送りにするようなもの、そのようなものが強迫的に必要であるということは、自分の中に自分自身が受け入れきれずに強く否定している自分の部分があるのかもしれない。普段から自分を否定していると当然日常は苦しい。その苦しみを一時的に誤魔化すために非日常を追い求める。非日常を追い求める傾向が強いということは、その分日常が苦しいということでもある。

 

誤魔化すだけでは根本的には何も解決しない。非日常は日常の問題を解決しない。逆に日常を安定させれば非日常はそれほど必要ではなくなってくる。非日常には基本的に多くのお金と時間と労力がかかる。よって、非日常を強迫的に必要としなくなれば、その分余裕ができる。

 

結局、日常を整えて、整え続けていくしかない。そして日常を整えるために欠かせないことは、使っていないものを手放していくことだ。そう簡単なことではないけれど、理想の方向性としてはやっぱりそっちなんや。

 

Aさん、あざす。