「活動の罠」――日々の生活の忙しさに追われ、やっていることそのものに意味があるかどうかを考えないありさま――の中に自分自身を見失い、成功のはしごを昇りつめて頂上に達した時、はじめてそのはしごはかけ違いだったと気がつく人がなんと多いことだろう。非常に忙しい毎日を送りながらも、その活動自体が、実は自分の最終的な目的とは何ら関係がないという可能性が大いにあるのだ。
(中略)もし、はしごをかけ違えていれば、一段ずつ昇るごとに間違った場所に早く辿り着くだけである。忙しいかもしれない、能率よく働くかもしれない。しかし、目的を持った上で始めない限り、効果的ではないのだ。
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
私たちは意識的であろうと無意識的であろうと、こういう人生には価値がある、こういう人生には価値がないというビッジョーンを一人ひとりがもっている。
そして基本的に私たちが思い描く「価値のある人生」というのは、「優越感を得られる人生」「他人を見下すことのできる人生」で、俗にいう「成功」というのは「優越感を得るために世間的な価値を手に入れること」ということだ。
優越感を得るためにお金が欲しい。
優越感を得るために有名になりたい。
優越感を得るために高い地位につきたい。
優越感を得るために有能になりたい。
優越感を得るためにブランド品が欲しい。
優越感を得るために美女(美男)と付き合いたい。
優越感を得るためにあの場所に行きたい。
優越感を得るために〇〇が欲しい、〇〇がしたいという思考パッターン。
いかに優越感を得られる身になるか、それが人生の目的となり、それが生活の軸となり、優越感を得ることに何の寄与もしないと思われることには目もくれず、ひたすら優越感を得るためにネバギバの精神で忙しい毎日を送ってしまっているのが私たちの多くの実際なのかもしれない。
(そして、優越感を得られないとなると、こんな自分には価値がないとして自分を責めたり、あるいはあんなやつには価値がないとして他人を否定することによって優越感を得ようとしたり、こんな自分は見たくないとして酒や薬物やギャンブル等の欲に走ることになる。)
しかし、優越感を得るために頑張り、優越感を得られるようなところにはしごをかけ、はしごの頂上まで昇ったとしても、幸福は絶対に得られない。
優越感のはしごを一段登るために、劣等感を感じやすくなるし、優越感の根拠としているものを失うかもしれない恐怖と不安に苛まれるからだ。
そしてもっと優越感を得られるようになれば、それらの不安や恐怖は解消され、安心できると思って強迫的にさらに頑張るが、そのはしごを昇ろうとすればするほど、消したいと思っていた不安や恐怖は増加していく。
また、優越感の根拠となっているものはすべからく諸行無常の理の影響を受けるため、そのはしごはいつ何時消え失せるかわからないし、いつかは必ず消え失せる。
「成功」を思い描いている人はこの世にごまんといるが、その「成功」が「優越感を得て他人を見下すこと」になっている場合、そのはしごを昇ろうとすればするほど、苦しみが増していくのだから、やはりそれははしごをかけ違えている。
どたまがアッパラッパラッパーの私は特に気をつけないといけない。でなければ実質的に苦しみを追い求めるだけの日々になってしまう。
声出して切り替えていこうと思う。