研究チームはさまざまな組織で、従業員に互いの交流を、「非常にエネルギーを奪われる」から「非常にエネルギーを与えられる」までの各段階に分けて評価してもらった。そうしてできあがったエネルギー・ネットワーク・マップは、なんと銀河系のモデルにそっくりだったのである。
テイカーは、まるでブラックホールのように、周囲の人びとからエネルギーを吸いとっていた。ギバーは太陽のように組織中にエネルギーを注入していた。ギバーは自分の考えを押しつけたり、手柄を独り占めしたりすることなく、仲間が活躍できる機会を作っていた。また、提案に異議があるときでも提案者をけなすことをせず、敬意をもって接する。
アダム・グラント『GIVE&TAKE 「与える人」こそ成功する時代』
テイカーというのは、言い換えると、価値のある自分像を証明することが人生の目的になっているような人で、さらに言い換えると優越感のために生きている。
いかに他人を見下して優越感を得ることができるのか、それこそが幸福であるという幸福観を持っている。
よって常に自分の価値を証明してくれる何かをかき集め、それらを根拠なり自信にして、自分が上であることを示そうとする、自分が優位であることを示そうとする、自分が価値のある人間であることを示そうとする。
自分の考えを押し付ける。
手柄を独り占めする。
仲間が活躍できる機会も作らない。
そういった「私はあいつと違ってこんなに価値のある人間なんだ」ということを証明する過程において、他人を見下すこと、馬鹿にすること、責めることは必ず生じてしまい、その結果、他人を粗末にすることが常態化する、習慣化する。
っちゅうことはどういうことかというと、粗末に扱われる相手からすると、粗末に扱われるわけだから、そらぁエネルギーが日常的に奪われるということになってしまう。
んじゃあ、その奪ったエネルギーを得てテイカーはエネルギー満タンになっているのかといういうと決してそうではなく、奪われたエネルギーは何にも活かされることなく消失していく。
テイカーは価値のある自分像の証明活動のことしか頭にない。
価値のある自分像の証明活動はこんな自分には価値がない、こういう人間にならなければ価値がない、というように等身大の自分を否定し粗末にすることから生じているいため、他人からエネルギーを奪うテイカー自身も苦しい思いをしている。
このことが理解できれば、テイカーがやるべきことは、自分が自分に課している価値のある人間としての条件なり基準なり線引なりを極力弱め、ほとんど無条件で自分のことを大事な存在だと認め、自分が自分を大事にしていくことなのだけれど、テイカーの中では、そんなことをすると自分は価値のない人間になってしまい、価値のない存在は人から見捨てられるのではないのかという恐怖や不安が生じてくる。
テイカーは「価値のない存在は見捨てられる」という不安や恐怖の中に常にいるが故に、価値のある自分像の証明に必死になり、こんなに価値のある自分は見捨てられないはずだという安心感を得ようとする。
一定の条件を満たさなければ人から見捨てられる、嫌われるのではないかという不安や恐怖は、自分が日頃から他人に一定の条件を課し、その条件を満たしていない他人を何よりも自分自身が見捨てたり嫌ったりするからこそ生じている。
つまり、誰かが本当に見捨ててくるかどうかはわからないにも関わらず(自分としてはこんな自分は価値がなくて大事な存在じゃないぽよ、と思い込んでいてもこの世はガチのムチで広いため実際には自分のことを大事に思い大事にしてくれる人は必ずいる)、自分の日頃の習慣、つまり「分けて否定する」習慣なり「粗末にする」習慣によって、「価値のない存在は見捨てられる」という思い込みが生じ、その思い込みによって不安や恐怖が生じ、その不安や恐怖によって価値のある自分像の証明活動が生じ、その価値のある自分像の証明活動の一環として「分けて否定する」習慣なり「粗末にする」習慣が生じ、そしてそのネガティブな習慣によって、他人はエネルギーを奪われ、自分はますます不安と恐怖に駆り立てられていく。
他人を粗末にし、優越感によって一時的に安心感を得られても、根本的にネガティブなために、すぐにこんな自分はダメだ、もっと自分の価値を証明しなければならんぜよ、という自己否定と強迫観念が生じ、自分のことも他人のことも粗末にし続ける。
この無限ループにはまり込んでいると相当苦しいだろうし、中には価値のある自分像を証明するために単なる思い込みにとどまらず、勝手に妄想を作り上げ、その妄想から抜け出せず、現実を全く生きられない人も出てくる。
妄想の中で「世界や他人は加害者であり、私は被害者」「世界や他人は低俗で汚れていて、私は清廉潔白で高尚な存在」みたいな感じのニュアンス的な存在になっている。そうすることにより、優越感を得ることができ、現実や実際の自分を無視することができるし、自分がやることなすことを全て正当化できる。
以上からわかることは、自分で自分を粗末にし(価値のある自分像という虚像は大事にするが、実際の自分は粗末にする)、その習慣が他人を粗末にし自他を共に苦しめているということでやんす。
そうならないためには、それを逆にすればいい。
自分で自分を大事にし(価値のある自分像という虚像ではなく、実際の自分を大事にする)、その習慣が他人を大事にし、自他に喜びをもたらす。
理屈はシンプルだが実践は難しい。
しかし、幸福になるためにはそっちの方向しかない。
自分や他人を粗末にして優越感を追求しても、そこには一時的な快楽と飢餓感と不安と恐怖と強迫観念しかない。
つまりは単純にそういうことなわけだ。
私はこれまで他人を見下して優越感を得ることが幸福であると信じ、その信念に基づき他人を見下して優越感を得るために膨大な時間と労力とお金を投じてきた。そしてサンクコストバイアスにより、今さら自分の過ちや無駄を認めるわけにはいかない。
よーし、今日もこれまで通り、価値のある自分像を証明し、他人を見下して優越感を得るために頑張るぞ! 立派なブラックホールなれるように頑張るぞ! 私は突き抜けるぞ!
まじでやべぇ。
声出して切り替えていこうと思う。