おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常のデザインと手段と目的

なぜこのデザインにしたのかという過程を相手に理路整然と語れるように、自分の思考回路の整理をきっちり行うようにしたら、作品からあいまいな部分がどんどん消えていきました。頭のなかに一点の曇りもなくなると、目的がフォーカスされて、ビシッと論理の筋道が通ったのです。すると、相手が疑問を挟む余地のないほど、自分の作品を完璧に説明できるようになった。言い換えれば、作品が完璧に自分のものになったのです。

佐藤可士和佐藤可士和の超整理術』

 

 「活動の罠」――日々の生活の忙しさに追われ、やっていることそのものに意味があるかどうかを考えないありさま――の中に自分自身を見失い、成功のはしごを昇りつめて頂上に達した時、はじめてそのはしごはかけ違いだったと気がつく人がなんと多いことだろう。非常に忙しい毎日を送りながらも、その活動自体が、実は自分の最終的な目的とは何ら関係がないという可能性が大いにあるのだ。

ティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』

 

デザインの理想は「ただ何となくこういう風にした」というのではなく、構成要素一つについて然るべき理由があり、それを理路整然と説明できる状態だと言える。

 

このデザイン思考は日常にも楽勝で適用することができて、私たちは何となく、自分の漠然としたセンスを信じて、漠然と日々何をするのかを決め、その漠然とした営みを組み合わせて漠然とした日常を構成している。

 

ふつうこんなものだろうと思う。

 

そして中には自分なりの目的があり、その目的に沿った営みによって日常を構成している人もいるかもしれない。

 

しかしながら、その目的が自分が本当に達成したいと望んでいる目的とは違うものかもしれない、ということも十分アリエール。

 

なので、私たちは自分の日常についてサンマルクカッフェーでゆっくりしながら、いや

、ああいうカッフェーは結構うるさいため、自室か近所の公園なんかで定期的に沈思黙考する必要がある。

 

自分の目的は何なのか。

そしてそのための有効な手段は何なのか。

手段や営みの合理的な構成は何なのか。

 

何を目的に据えるかで、手段やそれらの構成の組み合わせも変わってくると思うのだけれど、目的を定める上で注意したほうがいいのは、優越感を得ることに類する目的はやめておいたほうがいい。

 

私たちは幸福になることを人生の究極の目的に据えることが多いと思うが、幸福になるためには優越感を得られるようにならなければならないと段違いな勘違いをしてしまう。

 

つまり幸福になるためには、他人を見下せるような身分になることが必要であると思ってしまう。

 

だから他人を見下す根拠として、地位や財産や名声や正しさや美貌などを求めてネバギバの精神で頑張っている。

 

しかし、優越感を求めてネバギバの精神で頑張っているが果たして幸福なのかというと全然そうではない、ということは、そういう人が身近にいれば何となくわかるし(私だけかもしれないが、政治家や学者や管理職を見ても全然幸福そうには見えない)、そういう人たちの日常が必ずしも幸福ではないというエピソードは巷に溢れかえっている。

 

もし私の安定性が私の評判や持っている所有物に依存していれば、それを失いはしないか、盗まれはしないか、あるいはその価値が低下することはないかと常に恐れて、脅威を感じながら生活するほかない。より多くの資産、名声、地位を持つ人の前に出ると劣等感を覚え、逆に自分より資産、名声、地位の低い人に会うと、優越感を感じる。

 所有物中心の人は自尊心が常に揺らいでおり、一貫性、安定性、または一定の自分というものを持っていない。いつも資産、土地、地位、または名声を守ることに集中している。株の暴落で全財産を失った人や、選挙に落選して政治家が突然に自殺したという話は、誰でも聞いたことがあるはずである。

ティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』

 

上の引用は「所有物」を「優越感をもたらしてくれると思われる世間的に価値があるとされているもの」と読み換えてもいいと思うが、優越感を求めて何かをやることは誰しもが経験があると思うのだけれど、それはそれでいいとして、どこかの段階で「優越感を得る」「他人を見下す」という手段は「幸福になる」という目的に対して全然有効ではないということに気がつく必要がある。

 

これに気がつくと「優越感を得る」「他人を見下す」「他人を否定する」ためという方向性ではなく、それとは違った方向性(例えば、「自分や他人を大事にする」)へシフトしていくことができる。そして、詳細な説明は割愛するが、後者の方向性のほうが幸福になるためには有効で合理的だ。

 

逆に気が付かなければ、まだ足りないから不幸である、もっとあれば幸福になれる、ということで優越感を求めて、他人を見下すため、他人を馬鹿にするため、他人を否定するため、他人を粗末に扱うための努力を続けてしまう。

 

そこには温かな人間関係は生まれず、本人は自分の優越感の根拠となっている何らかの世間的に価値があると思われているものが失われることの恐怖と不安でいっぱいになってしまうからな。

 

(だからこそ失われないと思いやすいモノにも執着し(実際は諸行無常の理によって必ず失うことになる)、そのモノを根拠に他人を見下して、自分の優越性をアッピールするのだけれど、そのような人を本当に慕って人が集まるのかは甚だ疑問じゃ。集まるとしても、その人自身を大事したいと思っている人ではなく、何らかの世間的なうまみを吸い取りたいと思っている人じゃろう。そして本人もそのことがわかっているからこそ、そのうまみを提供しなければ見捨てられるという恐怖や強迫観念に苛まれることになるんじゃ。となぜか爺さんみたいになってしまった)

 

そもそも優越感を求めるのは、「今のこんな自分じゃダメだぽよ」という自己否定があるからで、その自己否定が消えない限り、どんなに優越感が得られるようなものを手に入れても根本的には何も変わらない(だから際限なく世間的に価値があるものを求めていく)。

 

そして優越感を得るためには自分の中で勝手に仮想敵を作り上げ、勝手に仮想競争を始め、勝手に仮想競争に勝ち続けなければならないし、この広大無辺な世界には必ず上には上がいて(まぁ、その「上」というのも自分が勝手に作り上げた幻想に過ぎないのだけれど)、それで「今のこんな自分じゃダメだぽよ」となってしまう。

 

よってまずは「上」とか「下」とかという概念は自分が勝手に作り上げているものだということに気がつく必要がある。

 

それからそのような「上」とか「下」とかに関係なく「自分は自分にとって大事」ということに気がつく必要がある。

 

そうなると、あとは自分にとって大事な自分を大事にしていくだけになる。

 

すると日常の営みの根本的なモチベーションが大きく変わってくる。

 

生産性を増大させ他人を見下すための睡眠から自分を大事にするための睡眠になる。

人からよく思われるための炊事・洗濯・掃除から、大事な自分の大事な体や服や部屋を大事にするための炊事・洗濯・掃除になる。

筋肉をつけて他人を見下すための運動から自分の心身を整えるための運動になる。

知識を身につけて他人を論破し他人を見下すための勉強から自分の心身を整えるための勉強になる。

集中力を高め結果・実績を残して他人を見下すための瞑想から、自分の心身を大事にするための瞑想になる。

他人を見下すための買い物から、自分の心身、自分の身近なもの、自分が今買おうとしているものを大事にするための買い物になる。

 

「優越感のために(こんな自分はダメだから)〇〇する」ではなく「(自分は大事だから)大事にするために〇〇する」に切り替えていけると、日常がすっきりして、穏やかになっていく。

 

他にもいろいろな方向性があるかもしれないが、いずれにしても、普段自分が何気なく日常的にやっていること、取り入れていること、その一つひとつの目的を一度確認してみるといいかもしれない。

 

そうすると自分がとんでもない方向へ時間と労力とお金をかけていることに気がつけるかもしれない。自分を全然大事にできていないことに気がつけるかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。