おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

ネバギバでラベルを求める

保坂和志さんの『人生を感じる時間』に以下の記述があった。

 

人生というのは人からラベリングされるようなものではない。もともと人生に貼るラベルなんて存在しない。四十歳を過ぎるとそういうことが実感されるようになる。

 

私たちは人から良いラベリングをされようと日々頑張っている。人から価値のある人間と思われて、人から良い評価を得ようと頑張っている。

 

人から価値のあるラベリングを得られたらその分だけ自分は価値のある人間になれると思っている。価値のあるものを手に入れたらその分だけ自分は価値のある人間になれると思っている。

 

しかしながら、人からのラベリングは自分ではない。ましてやそのラベリングは不特定多数の人からのラベリングでもある。自分ではないので自分ではどうにもできないし、自分ではどうにもできないほどの数の相手を気にしている状態は妄想だ。

 

例えばここに優越感を得るために大金を手に入れたい、他人を見下すために大金を手に入れたいと、日々頑張っているAさんがいるとする。そしてある日そのAさんが大金を手に入れたとする。

 

Aさんはその大金をもってして、高級品を買い漁ったり、高級車を乗り回したりして、人はAさんを「金持ち」とラベリングするかもしれない。そうしてAさんの人からの評価は変わるかもしれない。

 

だがしかーし、大金を手に入れたことによってAさんは変化したように見えるかもしれないけれど、変化したのはAさんではないものであって、Aさんの本質は実は何も変わっていない。

 

「名前には何があるのか? 私たちがバラと呼ぶもの

それは、どんな名前がつけられようと、甘い香りがする」

(ワールポラ・ラーフラブッダが説いたこと』)

 

バラと呼んでいるものの名前が「ゴミ」「嘔吐物」「鼻くそボンバー」という名前であっても、バラと呼んでいるものの本質である色味や香りが変わらないように、価値のあるものをかき集め他人からのレッテルや評価が変わろうと、Aさんの本質は変わらない。

 

価値のあるものを手に入れたら価値のある人間になれるという発想。

価値のある人間になって優越感を得たいという発想。

いかに人よりも優位に立てるか、いかに人を見下すことができるようになるか、それが人生の目的であるという発想。

 

そういう発想に基づいた生き方は大金を得ようと得まいと変わっていない。ただただ大金を得て優越感を比較的得やすくなっただけで、自分よりも金持ちの人間が現れると劣等感に苛まれることになる。

 

いずれにせよ、他人を見下すか、他人に見下されるかの世界に生きていることには変わりがない。

 

ああしたら幸せになれる、こうしたら幸せになれる、と思っている時の「幸せ」というのは多くの場合「優越感」のことで、私たちは何らかの形で他人を見下せる状態になることを夢見ている。

 

他人を見下そうとすればするほど、他人から見下されているように感じて苦しくなるのだけれど、この点を考慮すると、私たちは本質的に自分が苦しむように発想し、自分が苦しむようにネバギバの精神で努力している。もともと人から貼られるラベルなんて空疎なものであるにも関わらず、そういうものに実質があると信じ、なんとか価値のあるラベルを人から貼ってもらおうと努力している。

 

私たち人間ておもろいなー。

 

時間やお金や労力を大事にしていこうと思う。