雑食のサルは、動物というエサを得られる機会が比較的少ないことから、常にマウンティング行動をとって上下関係を確認しているとされる。(中略)
一方で、そこら中に無尽蔵に生えている植物を主に食べるゴリラはこうしたマウンティング行動はとらない。それどころか、自分が食べている植物を欲しがる他のゴリラが周囲にいたらそれを惜しみなく分け与えるそうだ。
岩尾俊兵『世界は経営でできている』
「満たされた欲求は動機づけにならない」のである。満たされていない欲求が動機づけになるのだ。人間にとって生存の次に大きな欲求は、心理的な生存である。それは、理解され、認められ、愛され、必要とされ、感謝されることである。
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
雑食のサルは「足りない世界」に生きているからマウンティング行動を行ない、エサを奪い合い、手にれてエサを握り締める。
一方でゴリラは「足りている世界」に生きているからマウンティング行動は取らず、エサの奪い合いもせず、手に入れたエサを握り締めることもなく、むしろ分け合う。
「足りている世界」にいるのか「足りていない世界」にいるのかというのは動物界だけではなく我々自称人間界にも適用され、なおかつ現代に生きる我々自称人間においては、特に自称先進国であるここ日本においては、エサの量は十分に存在していると思われるため、足りているのか足りていないのかはエサの問題ではない、すなわち基本的な衣食住の問題ではない。
んじゃあ何が足りているのか足りていないかのかというと存在の肯定だ。言い換えると、愛されること、受容されること、認められること、大事にされることだ。
仏教によると、私たちには「愛欲」というものがあり(これは「肉欲」とは別の欲であるため下心が芽生える以前の子供にもあるし、性欲が朽ち果てた老人にもある)、誰かに存在を肯定されたい、愛されたい、受容されたい、認められたい、大事にされたいという渇望がある。それほどまでに私たちは根本的な寂しさを心の内に抱えている。
そして私たちの多くが「価値のある人間でなければ愛されない、受容されない、認められない、大事にされない、肯定されない」という世界、つまり思考パッターンの中に生きている(その思考パッターンが生まれるのは何よりも自分自身が「価値のある人間のことしか愛さない、受容しない、認めない、大事にしない、肯定しない」からだ)。
だから私たちは、価値のあるものを手に入れて価値のある人間になれば、人から大事にしてもらえる、そうして自分の寂しさを解消することができる、自分の存在を肯定してもらうことができる、これを根本的なモチベーションとして日々ネバギバの精神で「世間的に価値のあるもの」を奪い合うために頑張っている。
存在の肯定、これは自己肯定とも言い換えることができるが、「足りない世界」にいる人は、他人の存在を認めるためのハードルが高く、それ故に自分で自分の存在を認めるためのハードルも高く、「こんな自分じゃダメだぽよ、より価値のあるものをより多く手に入れてより価値のある人間でなければ生きている価値はない」という思い込みの世界にいるため、まだ足りない、まだ自分はダメだ、という思いが延々と続くことになる。
例えば「足りない世界」にいる人は、どんなにお金があっても「足りないからこんな自分はダメだ」と考えてしまうが、実際は、自分を肯定するために至極高いハードルを設けて、こんな自分はダメだと自分を否定しているからお金(あるいはそれ以外のもの)が足りないように見えてしまっている。もっとお金があれば自分を肯定できると考えてしまっている。
この場合、足りないのはお金やその他の世間的に価値あるものではなく自己肯定で、どうして自己肯定が足りなくなるのかというと、人を認めるハードルが尋常ではなく高いからだ。
自分からしてとんでもなく規格外の人しか肯定しない、認めない、大事にしない、注目しない。となると、規格外の人と日常的に接する機会はないので、基本的に周囲の人を肯定することはないし、認めることもないし、大事にすることもないし、注目することもない。周囲の人だけではなく、自分自身のことも肯定することもないし、認めることもないし、大事にすることもないし、注目することもない。
そのような人に対しては周囲も敬遠するだろうし、自分で自分のことを否定し続けることになり、苦しみは延々と続く。
何かを必死に手にようとしたり、必死に成し遂げようとしている場合、その本当の目的は誰かに肯定されること、愛されること、受容されること、認められること、大事にされること、つまりは寂しさの解消であることが多い。
私たちは寂しさを解消するために、何かすごいものを手に入れたり、何かすごいことを成し遂げようと、至極回りくどいことしているわけなのだけれど、そんなことをするよりも、人を認めるハードルを下げて、周囲の人の存在を楽勝で肯定する、認める、大事にする、注意を払う、感謝する、そういうことをしていけば、自分で自分のことも肯定することができ、認めることができ、大事にすることができ、そういう人は当然、他人からも親しみを持たれるし、自己否定が減り、寂しさも解消されるようになる。
他人を認めるハードルを下げると、その分だけ存在の肯定が容易になる。
自分自身が容易に存在を肯定することができる、存在の肯定を容易に生み出すことができる、つまり存在の肯定が「足りている世界」にいるため、「足りない世界」のように存在の肯定を求めて何かを奪い合う必要がない、おれはすごい人間なんだぽよ、と虚勢を張る必要がない。
他人を認めるハードルをバカ高くしすぎて、自ら進んで「足りない世界」を生み出していないか要チェックだ。
「足りない世界」は苦しいだけだからな。
声出して切り替えていこうと思う。