おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分自身との人間関係

人間関係に大きな力を発揮するテクニックが本当にあるとすれば、それは真に自立した人格から自然にあふれ出るものでなければならない。だから、関係を築き始めるべきところはまず自分の内面であり、自分の影響の輪の中心であり、自分の人格を育てることである。

ティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』

 

死ぬまで付き合いが続くもの、それは何よりも自分自身なのだけれど、私たちは基本的に自分自身と仲が悪く、それ故に苦しみが生じている。

 

というのも私たちには物事を2つに分け、一方は認め、もう一方を否定してしまうという癖があるのだけれど、その癖のせいで自分自身さえも「好きな部分」と「嫌いな部分」、「価値のある部分」と「価値がない部分」、「きれいな部分」と「醜い部分」、「善良な部分」と「邪悪な部分」というように2つに分けて捉えてしまい、そしてこんな自分はダメだぽよ、と自分の負の側面を否定、攻撃、責め立てながら日々を過ごしている。

 

自分の中に醜い側面があり、その事実をそのまま受け入れることができず、こんな自分には価値がない、こんな自分はダメだと否定してしまったり、こんな自分はどうなってもいい、というように自分自身を粗末に扱ったりする。

 

自分の「醜い部分」への態度は他人にも向かい、他人の醜い側面を見て取ると、あんなやつには価値がない、あんなやつはダメだと他人を否定し、あんなやつはどうなってもいい、として他人を粗末に扱うようになる。

 

人のことを否定し、粗末に扱う人間からは当然人は離れていく。

そうして人間関係が壊れていく。

 

自分自身へやっていることがそのまま他人へ転嫁されるし、その逆も然りで、他人へやっていることが自分自身へ跳ね返ってくる。

(「醜いものにはこのように反応する」という癖が自他を問わず発動するだけだ)

 

自分自身に不寛容であれば他人にも不寛容になり、その不寛容さが人間関係を破壊するわけだ。

 

逆に、自分自身に寛容であれば他人にも寛容であることができ、その寛容さが良好な人間関係をもたらしてくれるということにもなる。

 

自分が自分自身の醜い側面を否定することなく、自分にはこういう側面があるなー、と受け入れることができていれば、他人の醜い側面が見えても受け入れることができ、他人を粗末に扱うことはない。むしろ、同じだなー、仲間だなーと共感することさえできるかもしれない。

 

人間関係の根本は自分自身との人間関係であり、それがベースとなって周囲の人間との関係が築かれていく。

 

そして、諸行無常の理によって周囲の人間が遠くへ行ってしまったり死んでしまったりしても、自分との関係は自分が死ぬまで確実に続く。

 

「きれいな自分」「善良な自分」「有能な自分」「価値のある自分」というイッメージに拘泥し、自分の内面の何かを否定したり抑圧したりして自分自身との関係を蔑ろにしていないか要注意だ。

 

声出して切り替えていこうと思う。