おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

否定をやめると余裕ができる

人はお金で豊かになれない(心で……という綺麗ごとではなくとも)、モノやサービスで豊かになるという真実である。

 

たとえお金をどれだけ稼いでも消費ができなければ意味がない。

 さらにはたとえ消費ができても、モノやサービスをじっくりと味わって満足を得るという時間と精神の余裕がなければ意味がない。

岩尾俊兵『世界は経営でできている』

 

私たちは基本的にお金をかき集めることに必死だが、それは自分の基本的な生活(寝る、起きる、食べる、排泄する)のためというよりは他人を見下すことによる優越感のため、あるいは将来の漠然とした不安の解消のためにお金をかき集めていることが多い。

 

(優越感を求める発想の根本には、「こんな自分には価値がない」「あんな人間には価値がない」という強い否定のイッメージがあり、だからこそ、「自分は価値がない人間ではない」ということを証明するために「価値のある自分」というものを必死に作ろうとしていて、一方で将来の漠然とした不安というのは、今自分が作り上げている「価値のある自分像」がいつか崩れてしまうのではないか、その自分像が崩れたらこれまで自分が否定していた「価値のない人間」になってしまうのでないか、あるいはこのままずっと「価値のない人間」のままで、永遠に私は「価値のある人間」になれないのではないか、という不安に他ならず、優越感を求めることも、将来の漠然とした不安に怯えることも、結局は根本的には同じで、自分で勝手に規定した「価値のない人間」という幻想に対し、否定的な感情を持っていることに端を発している)

 

いずれにせよ、そこには「お金がたくさんあれば、価値のある人間になることができ、他人を見下して優越感に浸って幸福になれる」「お金がたくさんあれば不安がなくなり、安心して幸福に暮らせる」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の思考パッターンがある。

 

人は確かにお金だけでは豊かになれないと思うのだけれど、仮にお金をモノやサービスに換えてじっくりと味わったとしても、そのじっくりと味わっているものが他人を見下すことによる優越感や一時的な不安の解消であったとしたら、自分が根本的に抱いている「こんな自分には価値がない」「あんな人間には価値がない」という否定的なイッメージは消えることはなく、それ故に、再び劣等感を覚え始め、不安を感じ始め、再び優越感と安心感を手に入れようと金を求め、それを優越感や一時的に不安を紛らせてくれるモノやサービスと交換し、という無限ループにはまり込むことになりかねない。

 

その無限ループも端から見れば楽しそうだが、はまり込んでいる本人としてはただただ苦しいだろうと思う。(大なり小なり、優越感と劣等感のループ、安心と不安のループを経験したことは誰もがあるはずだ)

 

この無限ループと無縁でいるためには、自分が規定している「価値のない人間」というものに気がつくこと、そしてその「価値のない人間」の存在を肯定することだ。

 

私たちは自分が規定している「価値のない人間」に該当する人を目の当たりにすると、こんな人はどうなってもいい、こんな人はいなくなった方がいい、こんな人はバカにしてもいい、こんな人は見下してもいい、こんな人は粗末にしてもいい、こんな人は苦しめてもいい、と当然のごとく思ってしまうし、どうしようもなく冷酷な感情が湧き起こってくる。

 

このように「価値のない人間」に対して自分自身が否定的な思考をし、否定的な感情を起こしてしまっているために、自分が「価値のない人間」になると、自分の否定的な思考や感情が自分自身に降りかかってきて自己否定が生じて苦しむことになるし、本当は周囲の人がどんな思いや感情を起こしているのか確かめようがなく、わからないにもかかわらず、周囲の人も自分に対して否定的な思考や感情を抱いているに違いないとどうしようもなく思い込んでしまい、どうしようもなく息苦しくなってしまう。

 

仕事ができない人を見て、どうしようもなくその人を見下すような感情が出てきた時、それは自分は仕事ができない人を「価値がない人間」として規定しているということで、仕事ができない人を見下してもいいと思っているということになる。

 

そう規定したり、そう思ってしまうのであれば、それはそれで仕方がないし、ある種の癖であるためそう簡単にやめられるものでもないので、まずは自分の「価値のない人間」観、つまり自分は「どのような人を『価値のない人間』と見ているのか」に気づき、そして、「『価値のない人間』に対して自分はどのような反応を起こしているのか」を把握することに努める必要がある。

 

その上で「価値のない人間」に対して起こしている自分の否定的な思いや冷淡な感情が、優越感への渇望や漠然とした不安や恐怖や強迫観念を生み出している、ということについて考えてみる。

 

すると段々と、自分の苦しみの原因は、他人やモノや環境といった外的なものではなく、自分の思考パッターンにあるということに気がついてくる。

 

確かにその人は仕事ができないかもしれない、世間的に価値がない人かもしれない、それは事実かもしれない、だけれど、それに対して否定的に反応すると、それによって自分に苦しみがもたらされる、だから否定することはやめたほうがいい。

 

仕事ができない、世間的に価値がない、ただそれだけで相手を苦しめようとしたり、相手の存在を否定しようとするということは、自分もただそれだけで苦しめられてもいいし、存在を否定されてもいいということになる。

 

こう考えられるようになってくると、自然と否定することをやめられるようになってきて、むしろ、仕事ができならできないで別にええジャマイカ、世間的に価値がないならないで別にええジャマイカと、ボブ・マーリー風に、価値がない人の存在を肯定できるようになってくる。

 

これは相手に優しくするためではなく、自分を守るためだ。

相手のためではなく自分のために相手を否定することはやめたほうがいい。

善人風を吹かせる必要はない。

 

するとどうなるか。

 

自分がかつてもっていた「価値のない人間」という幻想が薄れてきて、「価値のない人間」に対する否定的な感情も弱まってきて、自己否定も減ってきて、その分、優越感への渇望や将来の漠然とした不安も希薄になり、お金をちゃんと使い、モノやサービスを通じて優越感や一時的な安心ではないものを味合う精神的な余裕ができてくる。

 

むしろ、優越感や一時的な安心感を求めることが減ると、モノやサービスへの出費が激減する(いかに自分が優越感や一時的な安心のために多くの出費をしていたのかがわかる)。そうすると自然と金銭的な余裕ができてきて、お金のためにあくせくと働かなくてもよくなり時間的にも余裕ができてきて、自己否定がないために精神的にも余裕ができてきて日々がいい感じになる。

 

自分はどのような人を「価値のない人間」と見ているのか。

そして、自分は「価値のない人間」に対して自分はどのような反応を起こしているのか。

 

自分の反応や思考パッターンが日々の苦しみ、心の平安を生み出す。

 

声出して切り替えていこう。