おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

限界のない富、大きな貧乏

貧乏は、自然の目的(快)によって測れば、大きな富である。これに反し、限界のない富は、大きな貧乏である。

 

これは『エピクロス――教説と手紙』に書かれていることであるが、この1つ目の「貧乏」は「ものの量が少ない状態」、「ものの量が実際に使うことができる量の範疇に収まっている状態」と意味し、2つ目の「貧乏」は「その人の世界の見え方や捉え方」を示しているように思う。

 

「ミニリズム」や「断捨離」という言葉が日常化している今日においてもなお、私たちの多くは「使え切れないほどの量を持つことが豊かである」という認識をもっているのだけれど、使えきれないほどの量というのは限界がないということで、限界のない富というのは、賢者からすると「貧乏」に当たるという。

 

なぜ使い切れないほどの量のものを私たちはかき集めようとするのか。

 

・自分は死なないと思っている。

・生涯を通じてかき集めたものは死後も持っていけると思っている。

・かき集めたものによって「私は価値のある人間である」ということをアッピールして、人から大事にされたいと思っている。

・ものが少ないと、自分の価値が下がるような気がしたり、人から羨ましがられるような機会、人に自慢できるような機会が少なくなるような気がして怖い。

・自分ではないもので自分を定義できると思っている。

・自分ではないもので自分の価値を高めることができると思っている。

・価値のあるものを手に入れれば、自分を肯定できると思っている。

・使わなければものの価値は買ったときのまま一定に保たれると思っている。

 

まぁ、こんなものだろう。

 

これらの理由を大きく分けると二つで、一つは死ぬということについて真剣に考えていないから、もう一つは自分で自分を肯定できないから、ということになるかしらん。ものをかき集めるのは上記の理由が絡み合って起こっている。

 

一つ一つについて自分なりに考え直してみようと思ったのだけれど、そうなると文量が膨大なものになりそうなので楽勝で諦めることにするが、ものをかき集める傾向が強い人は「いかに自分で自分を大事にするか」というよりは「いかに人から自分が大事にされるか」ということを重視しているように思う。

 

「不特定多数の人間から大事されるためには、不特定多数の人間が価値を見出しているものを手に入れて、自分は価値のある人間であるということを証明し、不特定多数の人間に価値を認めてもらい、大事にされたい、チヤホヤされたい」、これが私たちの言う「成功」パッターンのテンプレートで、みんながみんな「不特定多数の人間が価値を見出しているもの(以下、「価値」と呼ぶ)」というものを手にれようとするので、そこには際限のないかき集め競争、アッピール合戦が生じる。

 

そこには十分というものはない。満足していたら、他人により多くの「価値」を手に入れる機会を与えてしまうことになり、そうなると自分が持っている「価値」が相対的に不足し、その分だけ、自分は大事にされなくなると感じてしまう。

 

際限なく何かをかき集めようする人は、こういう自分は人から大事にされないのではないか、ああなってしまうと自分は人から大事にされないのではないか、と心配になり、まだ私には価値が足りない、もっと価値をかき集めるぽよ、となり、不足感と「このままだと自分は見捨てられるかもしれない」という不安の無限ループに陥ってしまっているのかもしれない。そういう意味で苦しい世界、貧乏な世界にいるのかもしれない(世界というのは自分の物事の見え方や捉え方だ)。

 

その苦しみの原因は「いかに他人から大事にされるか、チヤホヤされるか」に重点を置いているところにあるわけで、その他人というのは不特定多数の人間なのだから、どんなに価値あるものをかき集めても、ただそれだけで自分を大事にしてくれる保証はない。これを持っていれば不特定多数の人間から絶対的に大事にされるものというものはないという意味で、価値も心許なければ、とうぜん不特定多数の人間からの評価というのも心許ない。

 

心許ないものをかき集めて、心許ない不特定多数の人たちから大事にされようというのがそもそも無謀なのだ。ここはシンプルに、価値の有無とは関係なく自分で自分を大事にしていく、自分で自分の日常を整えていくという方向にシフトしたほうがより確実だし、自分で自分を大事にできる分だけ不足感や不安も減るじゃんけと過去の異次元の賢者たちは言っているように思える。

 

声出して切り替えていこう。