おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

地獄の習慣

憎悪というものはいくらしたところで相手になど及ばず、むしろ自分に跳ね返って昼も夜も地獄へと変えてしまうものなのだ。

 

敵に仕返しをしようとしてはいけない。仕返しをしても、深く傷つくのは自分のほうだからだ。

D.カーネギー『道は開ける』

 

私たちは何か自分に都合が悪いことがあった時に、その原因を他人に求め、その他人に憎悪感情を抱く。

 

その他人のことを思い浮かべ、心の中で罵詈雑言を浴びせかけている、サンドバッグのようにフルボッコにしている、あるいはゲシュタポのごとく拷問している。

 

いずれにしても自分にとって都合の悪い相手を悪人としてみなし、悪人であれば傷つけてもいい、苦しめてもいい、馬鹿にしてもいい、見下してもいい、蔑ろにしてもいい、軽く扱ってもいいと当然のごとく思っている。

 

これが私たち自称「善人」の基本的な思考パッターンなり価値観なり傾向なのだけれど、実はこれは自傷行為をしているに等しく、自分で自分を苦しめていることに等しい。

 

ある人を心の中でフルボッコにする時(実際は、物理的にフルボッコにする時も同じなのだけれど)、私たちはその人のことを当然ながら思い浮かべている、自分の心の中でその人のイッメージを立ち上げている。

 

そうして自分の心の中で立ち上げたイッメージを攻撃している。

 

つまりそのイッメージというのは自分の心を材料に作られたものであるため、自分の心以外何者でもない。

 

「そのイッメージ=自分の心」を実際の相手であると段違いな勘違いをし、当然のごとく憎悪感情を抱き、容赦なく攻撃しているのだから、それによって苦しむのは相手ではなく当然自分自身ということになる。

 

つまり、どんな理由であれ冷淡な感情を抱いて他人を攻撃するということは自分を攻撃するということで、自傷行為をするということになる。

 

そして、息を吸っては吐くように他人を攻撃することが習慣になっている人は自傷行為をすることが習慣になっているということで、つまりそれは常時自分を苦しめることが習慣になっているということで、その状態を地獄という。

 

地獄というのは大分の温泉地のような物理空間のこと指すのではなく、習慣化された心の状態のことを言うらしい(大分の温泉地のような物理空間はあくまでも心の状態の比喩でしかない)。

 

日常生活をヘラヘラと過ごしていると、確かに相手から攻撃されることがある。

しかしそれは相手がすでに地獄にはまり込んでいて、自傷行為を繰り返しているに過ぎない。

 

仮に相手からの攻撃に報復攻撃をしてしまうと、自分も自傷行為をすることになり、いずれはそれが習慣となり、地獄行きとなる。

 

つまり文字通り相手から地獄に引きずり込まれるということになる。

 

そんなんやってられへんで。

声出して切り替えていこう。