おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人の求め方2選

先日、村上春樹さんの『街とその不確かな壁』を読んだ。同書に以下のような記述があった。

 

「孤独が好きな人なんていないよ。たぶんどこにも」と私は言った。「みんな何かを、誰かを求めているんだ。求め方が少しずつ違うだけで」

「そうね。そうかもしれない」

 

我々は根本的に寂しさを抱えている。そして誰かに自分の存在を認めてもらったり、受け入れてもらったり、大事にしてもらったり、肯定してもらったりすることを求めている。

 

これを仏教では愛欲という。

 

そして、愛欲を満たすために何かや誰かを求めている。

 

んじゃあ、どのような求め方をしているのかというと、「不特定多数の人が価値を見出しているものをかき集め、私は価値のある人間だということをアッピールすれば、人は自ずと近寄ってくる」という求め方だ。

 

わかりやすくいうと、金をかき集め、金持ちアッピールをすれば、人は自分に寄ってきて、私の孤独は癒やされる。ガリ勉をして秀才になり、頭が良いアッピールをすれば、人は自分に寄ってきて、私の孤独は癒やされる。

 

そこには価値あるものをかき集め、「価値のある自分」というものをアッピールすれば、人は自分に近づいて来てくれるはずだ、という発想が根本にある。

 

自分が何を価値あるものとみなしているのか、自分にとって「価値のある自分」というのはどういうものなのか、かき集めるものやアッピールしたい自分像が人それぞれ少しずつ違うだけだ。

 

金やモノをかき集め、おれはこんなに金もモノも持っている価値のある人間どす、だからおれのことを認めてくれ、大事にしてくれ、と心の奥底では思っている。

 

しかし、人はどんな自分をも肯定してくれる人、どんな自分をも受容してくれる人、どんな自分をも認めてくれる人、どんな自分をも大事にしてくれる人を大事にする。

 

よって、金やモノを通じて「おれは価値のある人間」アッピールをしても、人を大事にするという肝心な点がすっぽ抜けており、なおかつ、そのようなアッピールは「金やモノを持っていない人間は価値がない」と暗に人を否定しているようなものなので、人はその人が思っているようには近づいて来ない。

 

そうすると、もっと金があれば、もっとモノがあれば、人は近づいて来てくれるはずだと考える。そして今ある金やモノを握りしめたまま、さらに金やモノをかき集めようとする。当然そこには熾烈な競争がある。

 

仮に熾烈な競争に勝ち続けた結果、金やモノをかき集めることに成功し、人が近づいてきたとしても、彼らの目的はその人を大事にすることではなく、その人の金やモノや地位や名声だ。

 

それでも人が近づいてくると寂しさは誤魔化せるが、周囲の人間を自分に繋ぎ止めているものが金やモノや地位や名声だとすると、今度はそれらを失うことが不安となり恐怖となる。そして自分が持っている金やモノや地位や名声が確固たるものになるように(諸行無常の理によってそれは絶対に達成できないのだけれど)さらなる競争に身を投じ、さらに金やモノや地位や名声をかき集めようとする。

 

この方向性の生き方には、当然心の平穏はないし、当初求めていた誰かに大事にされたいという愛欲が満たされることもない。

 

一方仏教では、寂しさを解消するために価値あるものをかき集めて、人に近づいて来てもらうというアプローチではなく、価値があるなしに関わらず、自分から人に近づいていく、人が気持ちよく自分を受け入れてくれるように日頃から人を大事にしていくことを説く。人は大事にしてくれた人を大事にするため、大事にしてもらいたかったらまずは自分から大事にすることが不可欠だからだ。

 

これは媚を売るということではない。媚を売るということは、価値を問題にしている。価値がある人が上で、価値がない人が下という発想の中にある。金やモノをたくさん持っている人が上で、持っていない人が下という発想の中にある。媚びを売るということは、その人自身のことを見ておらず、その人ではない金やモノや地位や名声によってその人を認識し、あわよくばその人を自分に有利なように利用しようとすることだ。

 

一方で、大事にするということは、どんなにその人が自分にとって不都合であったり、腹立たしくても、つまり悪人であっても、そういう人間はこの世からいなくなったほうがいいと否定しないこと、そういう人も楽勝でこの世にいてもいいと肯定することだ。

 

と頭では分かっていても、私たちはついつい媚びてしまう。(心の中であっても)人を粗末に扱ってしまう。人を否定してしまう。人を価値のあるなしで断罪したり人を粗末に扱ったりすると、自分が苦しむことになるということがわかっていても、仏が言うところの「汚物の詰まった皮袋」である私たちはついついやってしまう。テヘペロだ。

 

この時に、重要なのはその自分の醜さを正当化しないことだ。

 

人を無条件で受容することが善であるならば、自分が悪とみなした人のことを否定するというのは悪になる。

 

前者を全力でやろうとしても後者のことしかできない自分が見えた時、善を全力

でやろうとして悪しかできない自分が見えた時、つまり自分の醜悪な部分が見えた時、それを正当化して自分を無理くり善人として見ようとはせずに、おいどんにはこういうところがあるんだなー、こういうところから苦しみが生じているんだなー、なるほどなー、と自分の悪の部分は悪の部分として受け入れるようにする。

 

受け入れることができなかったら、そのことに気づき、受け入れられない自分なんだなー、正当化してしまうなー、なるほどなー、とつい善人ぶってしまう自分を受け入れる。

 

その時に、自分の醜い部分を受け入れきれない自分はダメだ、と否定するのではなく、そういう醜い部分がある自分だけどここにいてもいい、と肯定する。とにかくどんな自分が見えたとしても正当化せず、最終的に肯定すること。

 

他人についても、他人の目につくところは必ず自分にもある。人に見える醜い部分は必ず自分にもある。自分にあるからそれが見える。そしてその部分を否定するということは自分を否定することになる。だから他人についても最終的には肯定することが必要になってくる。それが他人を大事にするということになり、それは同時に自分を大事にするということになる。

 

このように人を求める方法には大きく2つある。世間的な価値をかき集めて、その力によって人を引きつけようとする方法。そして、世間的な価値とは関係なく、自分から人に近づき、人を肯定し大事にしていく方法(無論、相手の心が閉じているのに無理やり近づいていくのは避けたほうがいい)。

 

『街とその不確かな壁』の主人公は後者のタイプであった。少なくとも前者のタイプではない。だから当然紆余曲折はあるものの大丈夫なような気がした。

 

以上です。