おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

優劣を問題にするだけの生き方

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先日、川越宗一さんの『熱源』という本を読んだ。同書に以下の一節があった。

 

アイヌを滅ぼす力があるのなら、その正体は生存の競争や外部からの攻撃ではない。アイヌのままであってはいけないという観念だ。いずれその観念に取り込まれたアイヌが自らの出自を恥じ、疎み始める日が来るかもしれない。

 

この小説には、優秀な民族と劣等な民族、優秀な人種と劣等な人種、文明国民と野蛮な異民族というように、人種や民族を優劣で分け、優秀なものが劣等なものを支配するのが当然という価値観の中で葛藤、翻弄される人々の姿が描かれている。

 

優秀な者は勝って生き残り、劣等な者は負けて滅びる。

 

そのような価値観の中で、優秀な存在と定義された者は、己が優秀な存在であるということを正当化するために科学で理論武装しようとし、武力をもって劣等と定義された人々の土地や文化や思想を思い通りにしようとする。そして、自称優秀な者同士は、どちらが優秀なのかをはっきりさせようとし、争いを延々と繰り広げる。

 

そして、劣等な存在と定義された人種・民族は、自分たちは劣等な存在ではなく、優秀な存在だということを証明・アッピールするために、優秀だと定義された人種・民族に認められるような功績を残そうとしたり、優秀な者に同化しようとする。 

 

「俺は立派な大日本帝国の臣民になりました。日本語を覚えて、兵隊にしてもらった。天皇陛下の名前も全部覚えました。軍人勅諭も戦陣訓も、みんな覚えました。俺は立派に戦えます」

 

これは、劣等と定義されたある少数民族の登場人物の言葉だ。

 

彼は、劣等な自分を恥じ、否定し、その自己否定を活力に、ようやっと優秀と定義されている大日本帝国の臣民になった。優秀な大日本帝国臣民と認められることによって、自分は優秀な存在であると自分を肯定することができたのかもしれない。

 

しかし残念ながら、その優秀で負けることのないはずの大日本帝国は戦争に負けた。自分がこれまで価値があると思い込んでいたものの価値が一気に崩れた。

 

彼はこれまで、優秀な存在になり、劣等な者を見下そうと必死に努力してきた。自分を優秀な存在であると定義してくれる「大日本帝国臣民」というレッテルを求めて、劣等な少数民族のままではいけないと自分を否定し、並々ならぬ時間と労力を注いできた。そしてようやっと手に入れたレッテルの価値が一気に崩れたのである。

 

上記の言葉は、大日本帝国が戦争に負けたという知らせを受けた後に、彼が吐いた言葉でもある。自分が信じていたものの価値が崩れたことが認められず、何とか戦って、その価値にしがみつこうとしているようにもみえる。

 

これらを受けて、戦時中は大変だったぽよなー、と柿ピーをあてにハイボールでも飲みながら呑気に読み進めたいところではあったが、上記のような構図は今の私たちにも十分に当てはまる。

 

今日の私たちにとって、人種や民族と優劣を結びつけるような価値観はほとんど馴染みがないが、何らかの形で優越感を得ようとする生き方は今でも当たり前のように根付いているように思う。

 

地位や財産や名声や才能や権力や美貌などを求めるのも、優越感を得たいからだろう。他人を見下して、「価値のある私」というものを感じたいからだ。

 

ある者は権力闘争に身を投じ、ある者は金儲けに狂い、ある者は美容整形にハマり、ある者はガリ勉に励み、とにかくどうにかして価値のあるものをかき集め、不特定多数の人間から「価値なる者」として認められようとネバギバの精神で頑張っている。

 

しかしながら、我々が必死にかき集めようとしているその価値あるものは、諸行無常の理によって、大日本帝国のごとくいずれ必ずその価値を失ってしまう。その価値が長く続いたとしても、我々自身が死に絶え、必死にかき集めた価値あるものは全て手放すことになる。

 

他人を見下すために生きること、他人に見下されないように生きること、優越感を得るために生きるということは、こんな価値のない自分はダメだ、もっとこういう自分にならなければと思い続ける生き方だ。そうして自己否定の末、価値があるとされているものを手に入れたとして、それらは最終的に手放すことになる。最終的に手放すことになるもののために生きるということは、それらのためにかけた時間と労力とお金を無駄にしているということだ。

 

優越感を求める生き方をしてしまうと、思い通りに優越感を得られない際に、人を否定したくなったり、こんな自分は価値がないと否定したりしてしまう。すると、人は離れていき、苦しむ結果になる。

 

また、仮に優越感を得られている場合であっても、一時的には気分が高揚して良いかもしれないが、優越感を得られなくなってしまう時のことを想像して不安になり、さらなる優越感のために人を傷つけたり散財したり自分自身を追い込んでしまい、最終的には苦しむことになる。優越感中毒になってしまうと、平凡な日常を送ることそのものが惨めに思えてきてしまい、苦しむことになる。

 

優越感は苦しみの根源だ。

 

まずは何かを行う時に、自分のモチベーションを確かめる必要がある。

それが優越感を得るためであるかどうかを確認する必要がある。

何かのモチベーションが優越感を得るためであるのであれば、それをそのまま認める必要がある。

その上で、なんでおいどんは優越感を求めているのかしらん、と自問自答してみる必要がある。

あちしは優越感を得て、他人を見下して、何をしたいのかしらんと考えてみる必要がある。

 

突き詰めていくと、そこには「私から他人に近づいていくのは怖いけれど、価値のある人間になれば、私はこんなに価値のある人間ですよとアッピールすれば、他人から価値のある人間だと認知されれば、他人から私のもとに近づいてきてくれる。価値のある人間は大事にされるものなのだから、こんなに価値のある私も大事にされるだろう」という発想があることに気がつく。結局は寂しさを癒やしたいということに気がつく。

 

お言葉を借りれば、見直される必要なんかなかったんですよ、俺たちは。ただそこで生きているってことに卑下する必要はないし、見直してもらおうってのも卑下だと思いましてね。俺たちは胸を張って生きていればいい。

 

強いも弱いも、優れるも劣るもない。生まれたからには、生きていくのだ。すべてを引き受け、あるいは補いあって。生まれたのだから、生きていいはずだ。

 

寂しさを癒やすためには、自分を否定して他人に認めてもらおうとネバギバの精神で努力することではなく、強い弱い優れている劣っているとかとは全くもって関係なく、自分と身近な人の存在を肯定し(こんな人間はいてはいけないと存在を否定せずに、どんな人もこの世に楽勝で存在してもいいと肯定すること)、受容し、大事にし続けるだけでいいっちゅうわけやな。

 

色々と考えさせられる良い本でございました。

ありがとうございました。