おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

平凡を自信にする

先日、青山文平さんの『つまをめとらば』という小説を読んだ。

 

 妻たちからは一様に優柔不断と責められた。振り返ってみれば、幾も紀江もけっして折れない質だった。言い分は決まって、私はまちがっていない、というもので、彼女たちから見てまちがっている者には容赦がなかった。

 

仏教によると、私たちには「分別心(ふんべつしん)」というものがあり、それによって私たちは物事を二つに分ける。価値のあるものと価値のないものだ。

 

そして価値のないものとみなしたものを見下して自分は価値のあるところに立とうとしてしまう。そうすることにより自分は価値のある人間であると自惚れることができる。

 

ニュースで不祥事を起こした人間を叩くことによって、こーんな極悪人を叩ける私は「正しい人間ぽよ」「善良な人間どす」「賢い人間さかい」と悦に浸ってしまうことってあるよね。

 

しかし、なぜそのようなことをするのかというと、心の奥底では自分は価値のない人間だ、こういう自分はいてはいけないんだという自己否定が強くあって、自分は自分のことを否定しつつも、せめて他人からは否定されないように取り繕おうとして、価値のある自分をアッピールしてしまう。あからさまにアッピールせずとも、善人の自分を感じようとしてしまう。

 

自分がコツコツと努力して自分で自分のことを肯定できるようになっていければいいのだけれど、そういうことは面倒臭いので、他人を否定して自分を肯定しようとする。その方がてっとり早いからな。

 

ここにはある種の無限ループがある。

 

まず自己否定がある。そして自分を無理矢理肯定するために、「価値のない人間」とみなした他人を否定する。「価値のない人間」とみなした他人を否定した分だけ、今度は自分が「価値のない人間」とみなされることが怖くなる。「価値のない人間」とみなされると否定されるように感じるからだ。なので、人から「価値のない人間」と思われないように、他人に事あるごとに「私は価値のある人間です」ということをアッピールしながら生きるようになる。確認しながら生きるようになる。そのアッピール方法、確認方法が他人を否定するというやり方なのだけれど、他人を否定すれば否定する分だけ、「価値のない人間」とみなされることが怖くなり、その分だけ日々が息苦しくなり、生きづらくなってくる。

 

「私はまちがっていない」ということに拘泥することも、自分から見て間違っているものに対して容赦ないことも、上記の無限ループの一部だ。

 

そういう人はこれまで「自分はまちがっていない」というところに立って、多くの人間を徹底的に否定してきた。心の中で冷酷な思いを起こしてきた。

 

だからこそ、「自分はまちがっている」と認めてしまうと、これまで自分が他人にしてきたように冷酷な扱いを他人から受けるのではないか、これまで自分が他人にしてきたように人から徹底的に否定されるのではないか、これまで自分が他人にしてきたように人から見限られるのではないか、これまで自分が他人にしてきたように言葉や行動では示さないものの心の奥底で徹底的に馬鹿にされるのではないか、

という恐怖や疑念が沸き起こってきて、とてもじゃないけど、自分の間違いは認められないどす、となってしまう。間違いを間違いと認められず、何かにつけて正当化してしまう。自分は正しい、間違っているのは相手だとして他人を責める。そして息苦しくなる。

 

「正しさ」をはじめとする「価値」に執着する人はそういう無限ループにはまり込んでいる可哀想な人でもある。つまり、心の奥底では自分を否定していて、自分に自信が持てない人でもある。

 

んじゃあ、この無限ループから抜け出すためには、自分を肯定したり、自分に自信を持てたりすればいいのだけれど、ボンクラな私たちはそもそも何を自信の根拠にしているのかしらん。

 

 あらかたの男は、根拠があって自信を抱く。根拠を失えば、自信も失う。

 句会に出る男の顔は、見立て番付の場処次第で、顔つきが変わる。御勤めの役職や位階でも、同じことが言えよう。

 

古今東西変わらず、私たちは社会的地位や財力や権力や名声や体力や知力や美貌を自分の自信の根拠にしている。もっと厳密に言えば、それらを手に入れて人を見下せる状態にあることを自信の根拠にしている。これは他人を否定して「正しい自分」をアッピールすることと大差ない。どちらも「他人を見下して優越感に浸ることが幸福である」という発想が根本にある。

 

他人を否定しようとすると、他人から否定されていると感じやすくなるように、他人を見下そうとすると、他人から見下されているように感じやすくなる。

 

よって優越感を追い求めるということは、見下されている、馬鹿にされていると感じやすくなる世界を作ろうとしているようなもので、そのような世界では幸福になれない。

 

財力を根拠に優越感を得ようとしている場合、裏を返すと「金のない自分には価値がない」ということになる。その時点でどんなに金を手に入れても根本的に自分を肯定できていないので不安と自信のなさは永遠とつきまとうことになる。そして優越感を得ようにも法外な額の金銭が必要になる。仮に世界有数の富豪になったとしても、莫大な財産のあり続ける自分を維持するためにネバギバの精神で頑張らないといけないし、金があることをアッピールし続けないといけないし、結局死んだら全てを手放すことになり、無一文になる。不安と恐怖と徒労感だけの人生になる。

 

んじゃあどうすればよいのか。

 

優越感を求めると見下されていると感じやすい世界ができあがり、その世界では当然息苦しくなる。そうなのであれば、自分が肯定されていると感じやすい世界を作ればいい。

 

私たち一人ひとりが住んでいる世界というのは自分が普段からどのような思いを起こしているかによって決まる。だから、人を見下すことが多ければ見下されていると感じやすい世界が生まれ、人を肯定することが多ければ、肯定されていると感じやすい世界が生まれる。

 

よって人のことをどんどん肯定していけばいい。

他人の長所だと思ったことを根拠にしてその人のことをどんどん認めていけばいい。

 

だがしかーし、私たちは人の長所を褒める時に、自分はできていないけれど他人はできているところを長所としてみなして褒めることが多い。今の自分にはできない特別なことを長所として褒めることが多い。

 

自分はビーフストロガノフを作ることができない。でもあの人はできる。ビーフストロガノフを作れるあの人はすごいなー、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことは日常茶飯事だろう。

 

そういう自分にはできない特別なこと、それはそれで価値のあることなのだけれど、自分が当たり前にできている平凡なことでも価値のある大事なことはたくさんある。

 

例えば毎食後の歯磨き。誰もがやろうと思えばできる平凡なことだ。それをやっているからと言って武道館ライブができるほどの称賛を得られることは絶対にないが、歯磨きの大切さ、その価値の高さは尋常ではない。

 

そして歯磨きを毎食後におこなっていることを長所として人を認めることができれば、歯磨きを毎食後におこなっている自分のことも認めることができる。

 

誰も真似のできないような希少で特別なことにばかり注目してしまうと、それができていない自分を否定してしまうことになる。しかし、至極平凡で価値のある大事なことというのは案外とたくさんあり、しかもその多くを自分はすでに難なくできていたりする。そして至極平凡で価値のある大事なことを実践している他人というのも実は周囲にはたくさんいて、それらを長所として他人を肯定することによって、自分が肯定されていると感じやすい世界ができあがってくる。

 

誰も真似のできないような特別なことで自分を肯定するより、真似することが簡単な平凡なことで自分を肯定できるようになったほうが遥かに生きやすい。

 

自分を肯定するためには他人=世界を肯定する必要がある。

苦しんでいる人は自分=他人=世界を肯定する基準が高すぎる。

 

ゴータマ先輩クラスになると、ただ存在しているだけでその人を価値のある存在として認め、その人の存在を肯定し、大事に思えることができるのだろうが、私たち凡夫は年収8000億円以上でキリスト先輩級の人格の持ち主でなければその人を価値のある人間と認めず、それ以外の人間はどうなってもいいと思っている。

 

話がまとまらなくなってきたので、ここで終わります。