先日、佐藤究さんの『テスカトリポカ』を読んだ。
当の本人は<命を救う>ことや<患者から感謝の言葉>などには、何の魅力も感じていなかった。末永が求めたのは力だった。権力や暴力とは異なる種類の力を望んでいた。
誰かの役に立ちたいという思いと、法を犯すほどのエゴイズムによる欲望が、この女のなかで矛盾せずに同居している。
この世界をよく見てみるがいい。人間の群れはいつでもいけにえを欲しがっている。それこそが神の望みだからだ。
この小説には優越感を得るためであれば手段を選ばない人物が多く出てくる。
彼らが優越感の源としているものはそれぞれ異なる。
ある者は善良さ、ある者は金、ある者は暴力、ある者は権力、ある者は宗教的役割。
善良な自分、金持ちの自分、凶暴な自分、権力のある自分、神に仕えている自分。
自分を「価値のある自分」として定義してくれるものを彼らはかき集めようとする。
そして、自分を「価値のある自分」と定義するためであれば躊躇なく罪を犯す。そうして壮大な犯罪組織が出来上がっていく。そして、そうした犯罪も自分の都合で正当化されていく。
優越感を得るために、何か価値のあるものをかき集めようとすること。
自分がやっていることを何かにつけて正当化し、常に自分を善良な人間とみなそうとすること。
これは何も犯罪者集団に限った話ではなく、自称凡庸な私たちもやっていることだ。
より多くの金をかき集めようとしている。
より高級なものをかき集めようとしている。
より価値のありそうな肩書を手に入れようとしている。
身近な悪いとされている人間を罵倒し、できる自分、物事がわかっている自分、善良な自分というものを確認しようとしている。
法には触れないだけで、優越感を求め、「価値のある自分」というものを定義しようとし、そのイメージを強固にし、証明してくれるようなものを欲し続けているという点は、私たち自称一般人も凶暴な麻薬密売人と何も変わらない。
いかに価値あるものを手に入れていかに優越感を味わうか、それが人生の目的になっている人がほとんどだろう。
(私もそうだ。だけれど、優越感を求めることが苦しみを生むということがだんだんとわかってきたので、その価値観から離れたいとも思っている)
どうして私たちは価値のある人間になろうとするのか。
それは人に存在を認められたい、大事にされたい、肯定されたいという根本的な寂しさ、孤独感を抱えているからだと仏教は説く。
寂しいのであれば、正直に己の寂しさを人に打ち明け、人に認めてもらったり、大事にしてもらったり、肯定してもらったりすればいいのだけれど、それはそれで怖い。
実際に私たちは人を価値のある人間と価値のない人間の2つに大別し、価値がない人間はどうなってもいい、見下してもいい、馬鹿にしてもいい、傷つけてもいい、責め立ててもいいと思っているからな。
そこで私たちは、価値のある人間になれば、人から自分の方に近づいてきてくれ、その寂しさは癒やされると考える。
価値のある人間になればなるほど人から大事にされ、肯定され、自分の寂しさは癒やされると考える。
そうして価値のある人間になるために価値のあるものをかき集めていくにつれて、根本的な寂しさを癒やすことではなく、価値のあるものをかき集め、優越感を得ることが人生の目的になっていく。
だがしかーし、物事は脳髄ががらんどうの人間凡夫が想定しているようには進まないのがこの世の面白いところで、どんなに価値のあるものをかき集めて優越感を得られたとしても、根本的な寂しさは一向に癒やされず、一時的な高揚感は味わうことはあっても、安心感と満足感に裏打ちされた幸福感を味わうことはできない。
圧倒的な優越感はあるかもしれないが、全然幸福そうに見えない人間はいくらでもいるだろう。たとえば金正恩さん。プーチンさん。会社のお偉いさん。
優越感を求める生き方がどうして不幸になるのか。
優越感を得るためには、他人を見下す必要があり、他人を粗末に扱う必要があり、他人を否定する必要がある。さらには、自分の醜い部分や都合の悪い部分や悪の部分も責め立て、否定する必要がある。我々はそれらを息を吸うようにやっちゃっている。
そして日頃から他人を見下す人間、他人を粗末に扱う人間、他人を否定する人間のもとからは当然人が離れていく。それでも人が離れていかないのは、自分自身のことを大事したいと心から思ってくれているわけではなく、自分が持っている金や権力や名声や美貌なりのおこぼれにあずかりたいからだ。
結局はアクセサリー感覚の人間関係しか築けず、根本的な寂しさは一向に癒やされず、もっと価値あるものを手に入れ、より価値のある人間になればこの寂しさなり不安は解消されるだろうと際限なく価値あるものを求め続ける。
このループから抜け出すためには、何より自分を大事できるようになる必要があるし、身近なものや人を大事できるようになる必要がある。
そして私たちは何かを大事にするということが具体的にどういうことなのかということをあまり考えることなく、自分なりの「大事にする」を自分なりに実践して、実はそれは「大事にする」ということではなかったということもありえているのかもしれへん。
なんかまとまりそうにないのでここで終わります。
以上。