おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

上下関係が身に染み込んでいる人

先日、村上龍さんの『ユーチューバー』を読んだ。同書に以下の一文があった。

 

今、わかるんだけど、おれは自由なんだ。みんな見たことがないんだよ。誰も気づかないけどね。すべての人が、上下関係が身に染み込んでいる。おれは違うんだよ。おれは学生で、ほとんど大学に行かないままデビューしたんだ。だから、六十歳の社長とも、十八歳のカメラ助手とも、ごく自然に対等に付き合う。

 

確かに私たちの多くは上とか下に囚われて日々生きている。

 

そして、なんとかして誰かの上になろうと持てるほとんどすべての時間と労力とお金を注ぎ込んでは右往左往している。

 

んじゃあ、そもそも私たちは人の上に立って何をしたいのか?

 

それは、人から大事にされたい、人から自分の存在を認めてもらいたい、ただそれだけだ。

 

人より上ということは、私は人より価値があるということだ。

そして、価値のある人間になれば、私は人から大事にされる、人から自分の存在を認めてもらえる、私たちは無意識にその前提で生きている。

 

だから私たちは、おいどんは下の人間じゃない、おいどんは上の人間だということをアッピールする。あちしは価値のない人間じゃない、あちしは価値のある人間だということをアッピールする。

 

自分は人よりも価値のある人間だということをアッピールし、こんなに価値のある自分は人から大事にされて当然だと思い込むための材料として、ある者は財産を、ある者は才能を、ある者は異性を、ある者は肉体を、ある者は名誉を、ある者は経験を、ある者は知識を、ある者は正義を追い求める。

 

私が今かき集めようとしているアッピール材料は果たして何かしらん。

私は今、何をもってして人を見下そうとしているのかしらん。

 

こう自問することで情けない自分の一面が見えてくるなー。

 

そもそも私たちはどうして「価値のある人間になれば、自分は人から大事にされる、人から自分の存在を認めてもらえると思って」しまうのかしらん。

 

それは自分自身が人を「価値のある人間」と「価値のない人間」の2種類に分け、価値のない人間に対しては冷酷だからだ。価値のない人間はどうなってもいい、価値のない人間はこの世からいなくなればいい、価値のない人間はどんなに苦しんでもいい、価値のない人間はどんなに傷ついてもいい、と思っているからだ。

 

自分自身が価値のない人間の存在を否定しているからこそ、自分自身が価値のない人間になると人から存在を否定されるような気がしてしまう。

 

だからこそ自分は価値のある人間なんだぽよ、ということを必死にアッピールせずにはおれなくなる。

 

「価値のある自分」というイメージを強化し、証明し、確認することに膨大な時間と労力とお金を注ぎ込むことになってしまう。

 

(私はヒップホップが好きでよく聞くが、ラッパーは自分が上で、あいつは下、おれはこんなに金を稼いでいる、おれはこんなに贅沢をしているという意味の歌をよく歌っていて、まさにこれこそが上下に囚われている状態なのかもしれへん)

 

さらに、上下に囚われがち人は、人を認める際の基準が高すぎて、なかなか人のことを認めようとしない。認めるどころか、ネバギバの精神で何とかして粗を探し出し、ネバギバの精神で何とかして相手を認めないようにしてしまう。

 

相手を認めるということは自分が下になるということで、自分が下になると粗末に扱われるのではないかという不安に駆られてしまうため(その不安は自分が下とみなした人間に対する冷酷さに比例する)、人のことをなかなか認めることができないのであーる。

 

人のことを認めるどころか、人のことを見下したり、否定することによって、「上の自分」「正しい自分」「価値のある自分」を演出し、アッピールしてしまうのであーる。

 

だがしかーし、どんなに「おれはこんなに価値のある人間なんだ」ということをアッピールしても、人のことを何かにつけて見下したり否定したりする人間のもとからは、当然人が離れていくし、人から大切にされることはない。

 

「価値のある自分」をどんなに振りかざしても、それは本来の目的である「人から大事にされる」「人から存在を認めてもらう」ということの実現からは遠のくばかりで、むしろ逆効果だ。

 

んじゃあどうすればいいのかしらん。

 

それは人を認める基準を下げ、どんなに苦手な人のことであってもその基準をもって認めることだ。

 

私たちは「価値のある人間」と「価値のない人間」という線引をして「価値のない人間」を否定しながら日々を過ごしているが、その線引は結局のところ自分自身が行っている。

 

自分自身で人を認める基準を定め、その基準で人のことを測っている。

 

上下関係が染み付いている人はその基準が特別なこと・希少なこと・困難なこと・不可能なことになっていることが多い。

 

上場企業役員とか世界チャンピオンとかノーベル賞受賞者とか年収1億円とかそんな感じのニュアンス的な雰囲気のことを基準にしている。それだけにとどまらず人格的にも仏クラスのことを基準にしている。

 

そしてその基準は他人だけではなく、自ずと自分にも適用される。

 

「年収1億円」という基準を設け、年収1億円未満の人間は認めないという生き方をしていると、自分の年収が1億円ではなかった時には、こんな年収の自分は価値がない自分はダメだ、と自己否定してしまい苦しむし、仮に年収が1億円だったとしても、年収1億円を下回ることが怖くて不安の日々を送る羽目になり、心の平穏は一向に得られないし。もちろん人からも大事にはされない。

 

逆に人を認める基準を低くし、どんなに苦手な相手であっても、その基準を満たしているのであれば認める、肯定する。そうしていくと、自分で自分のことも認めやすくなるし、人を認める基準が低いからこそ、自分がその基準を下回る可能性も極めて低くなる。

 

例えば、人を認める基準が「息をしていること」とすると、その基準に則って多くの人のことを肯定できると同時に、息を楽勝でしている自分のことも肯定できる。

 

人を認める基準が低いと、あいつもいいし、おれもいい、という世界ができやすくなり、その分窮屈な上下関係に囚われなくなる。それが上下関係の染み付いていない自由な身ということだ。

 

『ユーチューバー』に出てくる自称自由な小説家が世界をどのような線引で捉えているのか、その点は不明だが、以上のようなことを考えるいいきっかけになった。

 

なんかうまくまとまらないので、ここで終わります。