おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人を見下すための努力に励む日々

仏教を通じて自分のこれまでの努力がどのようなものであったのかを思い知らされた。

 

これまでの私の努力を端的に表せば、優越感を得るための努力、人を見下すための努力、人を馬鹿にするための努力、人よりも得をしようとする努力ということになる。

 

私は、自分はすごい人間、自分は正しい人間、自分は優れている人間、自分は力のある人間、自分はきれいな人間、自分は価値のある人間、自分は善い人間ということを多かれ少なかれ他人に認めさせることに時間と労力とお金を割いてきた。

 

「おれは頭のいい人間で、正しい人間であーる、だからおれは敬意は払われるべき存在であーる」、「おれの知性を人に知らしめてやる」みたいな感じのニュアンス的な浅はかな動機をもって、私は勉強なり読書に取り組んできたわけだ。

 

衣服や装飾品であれば、「おれのセンスに一目置かせてやるぜ」という軽薄な意気込みをもって、あれもこれもと靴や洋服を買い漁っていた。

 

今は衣服や装飾品を買い漁るということはしていないが、その理由は金を貯めたいからで、その根本には金があれば人に認めてもらえる、金がなければ人に相手にしてもらえないという浅薄な思い込みがある。

 

まじでやべぇやつだ。

 

しかしながら、「もっとこうだったら人に認めてもらえるだろう」という独りよがりな思い込みで頑張ること、「こうじゃないとダメだ、ああじゃないとダメだ」という自分勝手な判断で頑張ること、「こうしないと認めて貰えない、むしろ責められる、馬鹿にされる」という妄想的な思いで頑張ること、この手の努力は仏教的に無駄に終わる。

 

もっとやべぇやつだ。

 

この手の努力は諸行無常の理によって無駄に終わる。

 

その詳細は割愛するが、何らかの価値あるものを手に入れて優越感を得るための努力は無駄に終わると知らされて、とにもかくにも私にはそれがストンと落ちた。

 

結局のところ私は外面を飾り、優越感を求め、人に見下されまいと必死に頑張っていたわけだ。

 

その過程において、私が多くの人を責めて傷つけてきたのは疑いようがない。そして、仏教では相手を責めるということは自分の心を傷つけることに等しい。ということは、相手だけではなく自分のことも知らず知らずのうちに傷つけていたわけだ。

 

恐ろしいことである。

 

んじゃあどうすればいいのか。

 

そのための対策も仏陀は用意してくれているので、これからも仏教を勉強していきたい。