おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

2025年の心がけ

暦というのは人間が自分たちの都合の良いように作った便利グッズのようなもので、概念上の区切り、共同幻想なのだけれど、それは便利グッズであるが故にやっぱり便利だ。

 

(私の亡き愛犬に、今日から新年ぜよ!と喚いてもポカンとしていた一方で、散歩に行くぜよ!と喚くと、狂喜乱舞していたのだけれど、やはりこれは所詮暦は人間にとっての共同幻想でしかないということの証左なのかもしれない)

 

数日前に西暦という共同幻想が2025年に変わった。和暦という共同幻想が令和7年に変わった。

 

やはり新年になるとどことなく自分自身もリフレッシュされた感じがする。

 

(これは私自身が暦という概念上の区切りをがっつり取り込んでいることの証左なのだろう。私の亡き愛犬も新年になったからといってリフレッシュされた感覚を覚えるのかしらん。ほぼ確実に覚えないと思う)

 

今年と去年で心がけることに特に変わりはないのだけれど、年始に書き出すことによってがらんどうの脳髄に叩き込みやすくなるため、再確認していこうと思う。

 

幸福になるためには、自分にとっての自分の大事さに気がつき、自分が自分を大事にし続ける必要がある。そして自分のことを常に直に大事にできるのは自分しかいない。

 

(私のことを大事にするのは他人、他人から大事にされてなんぼで候、という大前提に立つこと自体が土台無理な話であり、根本的に不可能なことを他人に当然のごとく要求し、期待してしまうところに私たちの無知があり苦しみの原因がある。この大前提に立てなければ、それは自称大人に過ぎず、その思考パッターンは実質、私の愛する姪っ子や甥っ子と変わりがない)

 

よって、日常は「自分が自分を大事する」ということを軸に組み上げていく。

 

「自分が自分を大事にする」を分解すると以下の4つになる。

 

自分の持ち物を大事にする

自分の体を大事にする

自分の心を大事にする

自分の身近な人を大事にする

 

自分の持ち物を大事にするために、使わないものは捨てる、使わないものは買わない、持っているものはちゃんと使う。使ったらきちんと片付ける、ケアやメンテナンスをする。掃除や洗濯や靴磨き等を日常的に行う。多くのものを持ちすぎたり、広すぎるスペースを持つと、ケアや掃除やメンテナンスなどの管理が追いつかなくなるので、自分がきちんと使えるもの、楽勝で管理できるものの範囲でしかものを持たないようにする。

 

ものの本質は使うためにあり、使わないものをかき集める、使わないものを握り締めてとっておくというのは、ものを活かしていないということで、ものを粗末にしているということで、そういった粗末にする習慣が身につくと、一時が万事で自分や身近な人を粗末にすることに繋がり、自分に苦しみをもたらすことになる。

 

体を大事にするためには、睡眠と食事と運動が大事になってくる。

しっかりと睡眠が取れるように、夜は入浴や読書や瞑想を取り入れ、リラックスすることを心がける、ネットは控える。寝る時間と起きる時間をなるべく一定にすることを心がける。寝具も自分にとって心地の良いものを導入する。

 

外食や既製品だと栄養のバランスが取りにくいため、食事は基本的に自炊する。手の込んだ料理、毎日異なる料理を作る必要は全くなく、米、具だくさんみそ汁、それともう一品(焼き魚や肉炒め)で十分で、それでも栄養バランスが気になるのであれば、サプリで補充する。

 

運動は筋肉をかき集めて、その筋肉、肉体美を根拠にして人を見下すために無理なメニューを組んでやるのではなく、体を動かして体を大事にすることを目的として、無理のない軽いメニューを継続的にやっていくことを心がける。

 

その結果、筋肉はある程度はつくし、体型もある程度は整うのだけれど、そのような変化はおまけに過ぎず、そのような変化があろうとなかろうと、そんなこととは関係なく、自分の体は大事で、大事な体の調子を整えるためという目的のために運動を続けていく。

 

筋肉をかき集め、肉体美にどれだけ磨きをかけても、諸行無常の理によってそれらは必ず衰え、消失していく(諸行無常の理によって衰えて消失していくのは筋肉や肉体美だけではないのだけれど)。よって、筋肉や肉体美を根拠に人を見下したり、それらを自分の自信にしていると、諸行無常の理によって必ず苦しみが生じてくることになる。

 

(だから何事においても何かをかき集め、何かを握り締め、そうしてかき集めているもの、握りしめているものを根拠にして人を見下したり、自分の自信としてしまうと、諸行無常の理によって必ず痛い目に遭う。諸行無常の理を受け入れず、無視し、抗うことほど無謀で不毛なことはない)

 

筋肉や肉体美の有無に関係なく、自分にとっての自分の大事さというのは変わらないため、そんな自分の身体を大事にすることの重要性も変わることがなく、自分の身体は適度に動かすことによって大事にすることができるのだから、自分にとっての運動の大事さも変わらず、それ故に淡々と適度な運動を無理のない範囲で続けていくだけだ。

 

自分の心を大事にするということは、自分が今どのようなこと考えていて、どのような感情を起こしていて、どのような思いを起こしているのかに気づいてあげること。そしてそれらの考えや感情や思いを、そうなんどすなー、と京風に温かく見つめてあげることだ。

 

自分の内面に注意を払えるようになると(日常生活を一定のリズムに保ち、使っていないものを捨てていくと、外側の余計なものや真新しいものに注意が囚われることがすくなり、その分だけ自分の内側に注意を向けやすくなるよ☆)、自分の中の不完全な側面、悪の側面、醜い側面に気がついてくる。

 

私たちは自分のことを実際よりも美化したものとして認識していて(善良な自分、正しい自分、賢い自分、優秀な自分、清廉潔白な自分、完全な自分、優しい自分、強い自分、温かい自分、寛容な自分、明るい自分、面倒見の良い自分、気前の良い自分、温厚な自分など)、そのようなセルフイッメージ、自己像みたいな感じのニュアンス的雰囲気のものを自分だと思い込んでいて、そのような自分として人からも認識してもらいたいとガチムチに期待していて、そのような自分として人から認識してもらおうと外見上を整えているのだけれど、そのようなセルフイッメージは詰まる所、自分にとって都合の良い幻想でしかない。

 

よくよく自分の内面を見ていくと、自分が自分だと思い込み、他人からそう見てもらおうとネバギバ精神で努力しているセルフイッメージとはかけ離れた、考えなり、感情なり、思いなりがどうしようもなく湧き起こっていることに気がつく。

 

つまり、自分のセルフイッメージからすると、都合悪い側面、悪の側面、醜い側面、不完全な側面がガチのムチで自分の中にあることに気がつく。

 

ここで大事なことは、そのような自分のセルフイッメージにとって都合の悪い側面を否定しないこと、攻撃しないことだ。

 

私たちは、きれいな自己像、きれいな幻想を自分だと思い込んでいるために、そのような都合の悪い側面を目の当たりにすると、こんな側面は自分ではないぽよ、とそれを認めようとせず、責めて攻撃してなきものにしようとするか、外側の何らかの強い刺激によって注意を外側に向け、それを無視しようとするのだけれど、そこにあるものは厳然としてどうしようもなくあるわけで、その事実はいかんともし難く、また自分が攻撃したり無視しようとしている側面は、紛れもない自分の一側面なのだから、それがたとえ自分の悪の側面であったとしても、それを攻撃したり無視したりすると、実際に苦しみが生じ寂しさが生じることになる。

 

それはただただ自分を粗末にしていることになる。

 

だから、自分の悪の側面を目の当たりにしても攻撃したり無視したりしようとするのではなく、なるほどどすなー、と京風にただだた見て、受け入れていくしかない。

 

整理すると、自分のセルフイッメージにとって都合の良い自分の側面だけではなく(良い側面は良い側面で厳然としてある)、自分の悪い側面にも注意を払い、受け入れていく、これが自分の心を大事にするということになる。

 

(常日頃から不安や恐怖や強迫観念に駆られている人、苦しみや寂しさを抱いている人は、自分のきれいなイッメージに執着し、都合の良い自分の側面しか認めようとせず、常日頃から実際の自分の悪の側面を攻撃したり、無視したりしている。あるいは自分の悪を他人や社会に投影して、他人や社会を責め立てている。他人を責めることによって、私はあいつと違って悪の側面がない清く正しく善良な人間なんだ、と「きれいな自分」という幻想に浸ることができるし、怒りという強い刺激によって自分の注意を外に逸らすことができるからな)

 

また、私たちは物事を捉える時は必ず自分の心のフィルターを通して捉えている。

 

何かを感覚器官で感知し、それを自分の内面で自分なりに再構成し、そうして再構成したものを見ている。

 

よって、私たちが捉えている世界というのは、自分の心が再構成したものだけでできており、これは言い換えると、自分が捉えている世界は自分の心そのものということになる。

 

(物事の感知の仕方、再構成の仕方は一人ひとり必ず異なるため、同一のものを見ているようで、一人ひとりが捉えている世界は絶対に一致しない。同一空間にいるのだけれど、一人ひとり異なる世界を生きている)

 

よって、自分が何かを粗末に扱うということは自分の心を粗末に扱うということになり、一方で、何かを大事にするということは自分の心を大事にするということになる。

 

このことが理解できれば、ますます自分の持ち物を粗末に扱えなくなるし、自分の身体を粗末に扱えなくなるし、逆に、自分の持ち物を大事にすることが自分の心を大事にすることになり、自分の体を大事にすることが自分の心を大事にすることになるというのがわかる。

 

これは身近な人も例外ではない。

 

私たちが捉えているその身近な人というのも、自分が感知し、自分が自分なりに再構成したものでしかない。私たちは身近な人をありのままに捉えているわけではなく、自分の心で色付けし編集を加えたその人を捉えている。

 

だからその人に対し、冷たい感情を向けるということは自分の心に冷たい感情を向けるということで、その人に温かい感情を向けるとということは自分の心に温かい感情を向けるということになる。

 

その対象が他人であろうが、ものであろうが、自分であろうが、自分が捉えている全てのものは自分の心が再構成したものであり、それらが全て自分の心であるということわかれば、何かを粗末に扱うことはただただ自分に苦しみをもたらすだけで、何のメリットもないということがわかる。逆に、何かを大事に扱うことは自分に歓びをもたらしてくれるということがわかる。自分を大事にすることと他人を粗末にすることは絶対に両立しないということがわかる。

 

だから、自分を大事にするために身近な人も大事にする必要がある。

 

自分には自分なりの心があり、物事の再構成の仕方があり、つまり自分なりの世界があるように、他人には他人なりの心があり、物事の再構成の仕方があり、他人なりの世界がある。

 

このことを大前提として、自分の身近な人には物事がどのように見えているのか、その人はその人なりに物事をどのように再構成しているのか、その人はどのような世界の中に住んでいるのかということの理解に努める、その人の世界の受容に努める。

 

その人がその人の世界を自分を押し付けようとしてきたら、ストンと納得できない限り同意する必要はないし、自分の世界をその人に押し付ける必要もない(どちらも自分を粗末にし大事にしていないことになる)。

 

これが人の話を聞くということになる。自分を大事にし、その人を大事にするこということになる。

 

話を聞くこと以外に身近な人を大事にするためにできることは色々あるが(挨拶をする、感謝する、謝る、贈り物をする、一緒に時間を過ごす等)、人それぞれ生きている世界が異なる以上、相手の話をよく聞いたり、相手のことをよく観察しなければ、その人が何を大事に思っているのか、何をされたら嬉しく思い、何をされたら嫌だと思うのかというのはわからへん。

 

それに自分なりの「大事にする」が必ずしも相手にとっての歓びとなるわけではないため、おれは善人で清く正しく相手のことは全部お見通しなんだぽよ、と自惚れることなく、適時相手に確認することも必要になる。

 

人を大事にするというのは本気でやろうとすると一筋縄ではいかないということがわかり、そう簡単なものでないということがわかる。

 

このことがわかると、人に自分を大事してくれることを当然如く要求することの無謀さ、愚かさ、幼稚さにも気がつくことができる。

 

自分が息をするように楽勝でできることではないことを、人には何でこんな楽勝なことができないんだ、ふざけんてんのかと喚き散らし、怒り散らすこと(この思考パッターンも私が愛する姪っ子や甥っ子と同様の思考パッターンだ)の不公平さ、愚かさに気がつくことができる。

 

とまぁ、色々と話が拡散してしまったが、とにかく今年も自分が自分を大事にするという方向性で、自分の持ち物、自分の体、自分の心、自分の身近な人を大事にすることを心がけていこうと思う。

 

書き忘れていたけれど、私の脳髄(たとえがらんどうですっからかんでアッパラッパラッパーであっても大事な脳髄だ)を適度に使って大事にするために、読書や書くことも大事なので続けていこうと思う。

 

よし、体を適度に動かして体を大事にするために夜の店にでも行ってくるかー。

(無論オムロン、夜の店の女の子も自分の心が再構成して捉えているものであるため絶対に粗末に扱ってはならず、温かい気持ちで接してあげる必要がある)

 

レッツラゴー。