おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

苦しみの原因は人を見下して生きていることにある


私たちは日々苦しんでいるのだけれど、その苦しみの大きな原因は人を見下すことにある。優越感を求めて生きることにある。

 

私たちは何かにつけて人を見下そうとしている。

 

お金、財産、地位、権力、名声、栄誉、実績、知能、才能、美貌、健康などを手に入れ、それらを持っていない人を見下そうとしている。

 

あるいは、合法性、正しさ、善良さなど自分なりの正義(人はこうじゃなきといけない、物事はこうじゃないといけない、私はちゃんとしている、あの人はちゃんとしていない)を基準にし、その自分なりの基準に満たない人を見下そうとしている。

 

周囲を見渡せば容易にわかるように、そして何よりも自分を顧みればわかるように、みんな何かにつけて人を見下し、何らかの形で優越感を得ようと頑張っている。私はこんなに価値のある人間なんだ、ということを周囲に証明しようと頑張っている。

 

人を見下す基準は十人十色、人それぞれで、人の数だけあると言っていい。

 

どの基準では見下してよくて、どの基準では見下すべきではないかいう議論は不毛だ。仏教からすると、人を見下そうとする思いそのものが本人に苦しみをもたらすからであーる。

 

逆に、人を見下すことをやめ、些細なことであっても人の良いところに注目しその人を認めていく、敬意を示す、感謝していくと苦しみはなくなっていく。

 

んじゃあ、なぜ私たちは人を見下すことにこんなにも必死になっているのかというと、以下のような思想が根本的にあるからだ。

 

価値のない人はどんなに雑に扱っても良い。

価値のない人はどんなに苦しんでも良い。

価値のない人はどんなに傷ついても良い。

価値のない人は見捨てても良い。

価値のない人は存在していてはいけない。

 

価値のない人、価値のないものに対する冷淡で否定的で無慈悲な思いが私たちの根底にある。

 

自分自身が「価値のない人間は雑に扱ってもいい」と思っているからこそ、自分自身が価値のない人間になることに対してとてつもない恐怖心や不安を抱いてしまう。そして、価値のない人間にならないように必死に頑張るようになる、人を見下して自分は価値のある人間であることを必死でアッピールするようになる。

 

自分の根底にある冷淡な思いが恐怖や不安を生み出し、その恐怖や不安を原動力として人を見下すことに心血を注ぐようになる。そして人を見下す度毎に、再び恐怖や不安が生み出され、優越感を求める・・・という無限ループ。

 

結局、不安や恐怖心という苦しみは他人ではなく自分自身が作り出しているのだ。

 

物事を勝手に価値のあるものと価値のないものに分け、価値のないものに対して冷酷な気持ちを起こしているから苦しい。優越感を得て、価値のないものを見下すことが幸福だと思っているから苦しい。苦しみの原因は自分の根本的な思想、幸福観にある。

 

今現在、人を見下すために何かを成し遂げようと頑張っていること、人を見下すために何かを手に入れようと頑張っていることはないかしらん。

 

今日を振り返って、何らかの形で人を見下してしまったこと、見下そうとしてしまったことはないかしらん。

 

私も反省の日々である。

 

人を見下し、人を否定し、人を馬鹿にして優越感を得ても、その高揚感は一時的なもので一瞬にして消え去る。残るのは苦しみだけだ。まるでドラッグのようなものだ。優越感を求め続ける生き方はドラッグによる快楽を求めて続ける生き方と大差ない。

 

私たちは人を否定する天才だ。そして仏は人を肯定する天才だ。

 

詳しい説明は割愛するが、仏教の説く真実からすると、人を否定することは自分を否定することになる。つまり、他人を見下すことは自分を見下すことになる。自分が自分を見下しているのだから苦しいに決まっている。人を見下すことに何のメリットもないのだ。

 

優越感を得ようとすることは自傷行為と同じだ。まずはこのことを肝に銘じて、日常を送る。そして、人の良いところを見つけて積極的に認めていく。それは自分を肯定することに繋がる。

 

それしかないな。