おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

分けて否定して拘る日々になっていないか

山本文緒さんの『自転しながら公転する』を読んだ。

同書には以下の文章があった。

 

何かに拘れば拘るほど、人は心が狭くなっていく。

幸せに拘れば拘るほど、人は寛容さを失くしていく。

 

仏教には分別心というものが教えられている。

この分別心というのは、物事を善と悪に分ける心のこと、価値のあるものと価値のないものに分ける心のことだ。

 

我々は物事を分けてどうするのか。

 

我々は物事を2つに分け、悪と見なしたもの、価値のないとみなしたものを見下したり、責めたり、無視したり、馬鹿にしたり、損をさせたり、存在を否定したりして優越感を味わい、それを幸福とみなして悦に浸ろうとする。

 

そして、自分が悪にならないように頑張る。自分が価値のない人間にならないように頑張る。他人から見下されないように頑張る。責められないように頑張る。無視されないように頑張る。馬鹿にされないように頑張る。損をさせられないように頑張る。存在を否定されないように頑張る。

 

何かへの拘り、つまり「こうじゃないといけないどす」と強く思うのは、そうじゃないと悪になってしまう、価値のない人間になってしまう、そうなると他人から見下される、責められる、無視される、馬鹿にされる、損させられる、存在を否定されると強く思うからだ。

 

なぜそう思うのかというと、悪と見なしたものに対して、価値のない人間とみなしたものに対して、見下したり、責めたり、無視したり、馬鹿にしたり、損をさせてもいいと思ったりする冷酷な心が自分自身の中に紛れもなくあるからだ。

 

例えばここに人をハゲている人とハゲていない人に分け、ハゲていない=善、ハゲている=悪という分別心を持っているAさんがいるとする(人間が分別心によって作る善悪は絶対的なものではなく、完全にその人が勝手に作ってしまっている)。

 

そしてAさんは悪を徹底的に責める冷酷な心があるため、ハゲている人を徹底的に馬鹿にし、見下す。そうしてハゲている人を馬鹿にし、見下している分だけ、Aさんは自分がハゲることに対する恐怖は大きくなる。だから、その恐怖心を原動力に必死にハゲ対策を行う。

 

だがしかーし、その甲斐虚しく諸行無常の理によって、Aさんはハゲの仲間入りをしてしまう。つまり、これまで善人(ハゲていない)であったAさんは悪人(ハゲ)になってしまった。するとどうなるか。これまで悪を苦しめようとしてきた分、Aさんはそれが自分に跳ね返ってきて相当な苦しみを味わうことになる。おれはハゲている、悪だ、みんなおれのことを見下しているに違いない、馬鹿にしているに違いない、こんなおれはもう生きている価値がない、と自分が冷酷な心で悪を否定してきた分だけ勝手に感じてしまう。

 

周囲の人間はハゲているAさんに対して否定的な見方をしているわけではないにも関わらず、Aさんが分別心を持ち、悪に対して冷酷な心を持っている以上、Aさんは人から馬鹿にされている、見下されていると感じながら生きていくことになる。

 

何かに拘るということ、つまり執着するということは、必ずそこに悪(と自分が勝手にみなしたもの)を否定する心がある。悪に対して狭い心がある。悪に対して寛容ではない心がある。そして自分が悪にならないように、自分が否定されないように強迫観念的に何かを頑張り続ける。これは落ち着かない苦しい生き方だ。そしてそれは悪を責める心から生まれる。

 

仏教では悪は悪として認めること、だけど、悪を責めないことを教えている(もちろん善も責めない、仏や菩薩の心の境地になってくると物事を分けることすらしなくなる)。

 

悪だけどダメではない悪だけど否定しない。むしろ、悪だけど肯定する(もちろんどんどん悪をやっていこうという意味での肯定ではなく、楽勝で存在していてもいい、楽勝でここにいてもいいという意味の肯定だ)。

 

仏教では自分に苦しみをもたらすものこそが悪だ。そして、苦しみは他人がもたらすものではなく自分が自分自身や他人を否定することから生じる。だから仏教は悪であっても責めない。自他を問わず、善悪を問わず、何かを否定すると自分に苦しみが生じるからだ。

 

そうわかっていて頑張ってネバギバの精神で実践しようとしても、私たちは物事を二つにわけ、何かを否定してしまう。つまり仏教でいうところの悪を犯してしまう。その時は、何かを否定してしまっている悪の自分に気づき、その悪の自分を責めないこと。それでも責めてしまったら、その責めている自分に気づき、その悪の自分を責めないこと(以下同文)。

 

一方で、何かを否定した時、自分はその何かの具体的にどのようなところが気に食わなかったのだろうと自問してみること。そしてその気に食わなかったところは本当に自分には全くないのだろうかと自問してみること。おれっちはハゲを馬鹿にしているけれど、果たしておれっちは絶対にハゲないと断言できるかしらんと自問してみること。すると、無茶苦茶な正当化をしない限り、あいつもおれも大差ないじゃんけということに気がつく。

 

なんかまとまりそうにないのでここで終わります。

 

以上どす。