おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

寂しいから必死にアッピールする

特に「一般的には」「普通は」「客観的に見たら」「みんな」「他の人も」といった言葉が頭の中に浮かんできたら気をつけたほうがよい。自分の意見がいかに正しいかを、それらの言葉を利用して説得しようとしているだけのケースが多い

櫻井将『まず、ちゃんと聴く。コミュニケーションの質が変わる「聴く」と「伝える」の黄金比

 

私たちは今現在の主観からは絶対に抜け出せない。

 

今現在捉えていることは今現在の自分の心のフィルターによって必ず歪められていて、自分が捉えていることはあくまでも自分なりの解釈でしかない。

 

「自分にはこう見える」ものでしかなく、「自分にはこう感じられる」ものでしかなく、それは万人に共通する正しいものではない。

 

このことを理解すると、自分は現実をありのままに正確に捉えきれているわけではないと留保することができ、ある種の余裕が生じ、自分の意見がいかに正しいかを証明することにネバギバの精神で必死に取り組む必要を感じなくなってくる。

 

ネットに罵詈雑言を書き連ねていかに自分は正しい人間なのかをアッピールする必要性を感じなくなり、心穏やかに過ごすことができるようになってくる。

 

「一般的」「普通」「客観的」「みんな」「他の人」みたいな感じのニュアンス的な概念も詰まる所は今現在の自分のフィルターを通したものでしかない。

 

過去も未来も今の自分が自分の心のフィルターを通して捉えている自分なりの解釈でしかない。

 

自分が何かについて語るときに、それは無色透明な事実なのか、あるいは自分なりの色が混ざっている解釈なのかをきちんと区別する必要がある。

 

ある人が無言で立ち去った。

 

これは事実なのだけれど、これを「あの人は自分のことを無視した」と思うのは自分なりの解釈でしかない。

 

「一般的」「普通」「客観的」「みんな」「他の人」というのも、具体的に誰なのか何なのかという実際のところはよくわからない。

 

よくわからないものをこうに違いないと勝手に決めつけ、固定化し、実体化し、概念化し、勝手に不安や恐怖に怯えたり、押し付けて誰を論破し見下すための材料にしている。

 

自分なりの単なる妄想を万人共通の常識なり現実なり世界なりと段違いな勘違いをし、おれが正しいんだ、あちしが正しいんだと互いに見下し合い、今日も自分の正しさを証明するためにネバギバの精神で頑張っている。

 

(それが本当の正しさであれば、心はすでに穏やかになっているはずなのだけれど、自分の正しさをもってして相手の正しさを壊すか、相手の正しさによって自分の正しさが壊されるかという戦いの渦中にいるため、どれだけ正しさを証明できたとしても、心は一向に穏やかにならず、一向に幸福にはならない。むしろ自分の正しさ以外は認めない独裁者のようになっていき、その分精神的に荒廃していく)

 

これがまぁ、自称大人の実態なわけだ。

 

んじゃあ、どうして自分は正しさに執着し、自分の正しさを必死にアッピールしようとしているのか。おれはこんなに正しい人間なんだ、あちしはこんなに正しい人間なんだと証明することに必死なのか。

 

それはまぁ、寂しいからだ。

 

他人から正しい人間として認知してもらえれば人から大事にしてもらえる、と思っているからだ。

 

何かをアッピールして自分の価値を証明しようとするのは、寂しくて人から注目してもらい、大事にしてもらいたいからだ。

 

何かをアッピールして自分の価値を証明しようとする行動の奥底には切実な寂しさがある。

 

その人は寂しくて自分の価値をアッピールしようとしているのだから、その人の寂しさを癒やすことにフォーカスできればいいのだけれど、こちらも相手に劣らず寂しいために、相手に負けじと自分の価値をアッピールし始めると、どちらが大事にしてもらえるのかをかけて壮絶な闘いが生じることになる。

 

その根本には切実な思いがあるためにその争いは激しいものとなる。

 

勝った者が価値ある者として認められ、価値ある者は大事にされるという幻想によりお互いを徹底的に潰し合う。

 

その結果、自称勝者が大事にされ、寂しさが解消されるのかというとそれはない。

 

自分の正しさの証明と自分の寂しさの解消は全く関係がないからであーる。

 

自分の価値の証明と自分が根本に抱えている寂しさの解消は関係がない。

 

寂しさを解消したくて自分の価値を証明しようと頑張っているのに、自分の価値の証明と寂しさの解消は関係がない。

 

このことに気がつかないと、自分の価値の証明活動に人生の膨大な時間と労力を投じることになり、その努力の結果、根本的に求めている寂しさの解消は一向に解消されず、自分の根本的な寂しさが解消されないのは自分の価値の証明活動がまだまだ足りないからだと段違いな勘違いをし、さらなる自分の価値の証明活動に励むことになる。

 

そして自分の価値の証明活動を通して獲得したものは諸行無常の理によって必ず失われるのだから、その徒労感は凄まじいものになる。

 

自分は何のために何をやっているのか。

目的と手段の間には正しい因果関係があるのか。

 

この手の自問と確認作業を怠っている限り、ゴータマ・シッダールタ先輩が言うように「人生は苦なり」ということになる。

 

一応、結論を伝えると、自分の根本的な寂しさを解消するには自分が自分や他人に対して温かくなるしかない、寛容になるしかない。自分が自分や他人にきちんと注意を払い、敬意を払い、心身を大事にし続けるしかない。

 

自分の主観を絶対視し、相手の主観を無視し、自分の正しさを証明することは幸福をもたらさないという意味で時間の無駄ということになる。

 

声出して切り替えていこうと思う。