おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

一つという思い込み

 自分の中にある多面性を認め、それぞれを大切にする。つまり、それぞれの肯定的意図を自分自身がちゃんと聴く。すると、それぞれの自分の違いを活かし合い、補い合う選択ができるようになる。

 それができるようになると、誰かの話を聴く時にも「相手の中にも複数の人格がある」ものとして関われるようになる。

 

自分の中の多面性を認められない人には、本当の意味で多様性を認めることはできないと私は考えている。

 自分のある一面を悪者扱いし、見てみないふりをして押し殺す。「痩せたいんだから、おやつを食べたい自分はダメなヤツ。そんな自分は自分の中から追い出してやる」という発想は、他者との関係性において「私の考えが正しいから、あなたは間違っている」と断じることに他ならない。

櫻井将『まず、ちゃんと聴く。コミュニケーションの質が変わる「聴く」と「伝える」の黄金比

 

仏教には私たちの迷いとして「常一」というものがある。

 

本当は無常なのに常と思ってしまう。

本当は多種多様なのに一つしかないと思ってしまう。

 

そしてこの迷いから多くの苦しみが生まれている、というより、自分で勝手に生み出している。そして、その道理がわからないために苦しみを人のせいにしてネットに罵詈雑言を書き連ねたり、誰かを見て敵意や憎悪感情をメラメラと沸き立たせている。

 

自分の内面にきちんと注意を向けていくと、自分の中には実に多様な側面があり多様な思いがあり多様な感情があり多様な考えがあるということに気がつき、それらが刻一刻と揺れていたり流れていたり揺蕩っていたりしていることに気がつく。

 

おいどんには一つの側面しかない、一つの思いしかない、一つの感情しかない、一つの考えしかない、そして何も変化がないというのはありえない。

 

そうとしか思えないのは雑な見方しかできていないか、こうじゃないといけないああじゃないといけないと、理性が心を抑圧しすぎて心が瀕死の状態なのかもしれない。

 

自分というのは本当は多様な側面で構成されて刻一刻と変化しているのに、自分はこういう人間なんだと自分に対して雑な見方しかできず、自分のことを単面的にしか捉えず、断定し、固定化し、永続化する。

 

だから、相手というのは本当は多様な側面で構成されていて刻一刻と変化しているのに、あいつはああいう人間なんだと他人に対し雑な見方しかできず、他人のことを単面化し、断定し、固定化し、永続化する。

 

だから容易に自分のことをわかったつもりになれる、相手のことを理解できたつもりになれる。

 

わかっているもの、固定化されているものに注意を払う必要はないため、自分のことをちゃんと見ない、自分の話をちゃんと聴かない、自分に注意を払わない、相手のことをちゃんと見ない、相手の話をちゃんと聴かない、相手に注意を払わない(払うとしたら責めるために払う)。

 

そうして自分が自分を無視するが故に寂しさが募っていく、相手にも寂しい思いをさせる。

 

そして自分との人間関係が崩れていく、相手との人間関係が崩れていく。

 

そしてその苦しみの原因を他人や社会のせいにする。

ネットに他人や社会について罵詈雑言を書き連ねる。

ニュースを見、画面上のディジタルデータに向かって怒りを叩きつける。

 

あるいは、世間的価値があれば人から大事にされ寂しさが解消されると思い、ネバギバの精神で世間的価値をかき集めることに貪欲になる。

 

怒りと貪欲。

二大煩悩。

 

(ちなみに欲と貪欲は違う。欲自体は悪いものではない。腹が減ったから焼肉を欲する。これは欲。価値のある人間として見られるためのアクセサリーとして高級焼肉を欲する。これは貪欲。その言動の奥底に人から価値のある人間として見られることへの強い衝動があるかどうかが欲と貪欲の違いになってくる)

 

自分の中にできる自分もいればできない自分もいる。

そしてあたかも自分は全部できる人間であるかのように、できない自分を責める、見下す。

 

相手の中にもできる側面もあればできない側面もある。

そしてあたかも自分はできる人間であるかのように、相手をできないものと決めつけ、責める、見下す。

 

私たちは気をつけていないと息を吸って吐くかのごとく楽勝で常一の迷いにはまり込んでしまう。

 

大丈夫?

 

声出して切り替えていこうと思う。